2005年03月05日

 電話。横浜精神保険福祉センター。落ち着いた、そしてくたびれた話し声の、老女らしい声。
「やっぱり専門家のね…」
 国立病院機構久里浜アルコール症センター? だけど要入院でひと月に十九万、だって? 冗談じゃない。つうか、バカにしてんのか? 仕事もしねえでベッドの上に寝ころんで、いったい毎月、誰がそのゼニ払うんだよ。だいいち、国立はダメだ。こっちにも、まあいろいろと事情があってな。

 それなら、近所のわたくしりつ、メ・ン・タ・ル・ク・リ・ニ・ッ・ク? 金さえ払えば、専門家きどりのポンコツが、一日かそこら、生き延びさせてくれますよ?(実際、私は面接というものを受けて知った。あれらは、私とは種類が違うかも知れないが、完全に狂人だ。反吐が出るほど退屈で、つまらない、無知で、品性の欠片もない、くだらない連中。ようするに、まるで話にならない)。



 ここは一応私のページだから、何を書いても、いいんだよね、という、怠惰、驕慢。現実には今や、この血の一滴、肉の一片すら、私のものではないのに。今にちまで私を養ったあらゆる人々の意思、命、名前、お金、時間。書くことの自由すら失い、いまやこの身は埃かぶって、ガラスのケースの片隅に、忘れ去られた流れの質草。せめて! 道端の収集場に無為に捨てられた、酔漢すら興味を示さぬ蛍光ランプ、無機のがらくた、であれば、まだしも最後の自由はあったろうに!



 そんなわけで、福祉センターやら、病院やら、このところ勧められるままに、さんざんさまよい歩いて、たらい回されて、それでもとにかく”専門家”さまの叡智に対価を払い、ほとんど彼らを人間でなく、職業倫理と浅薄なうぬぼれ機能付きの機械なんだと、そう受け入れて、いわゆる治療というものを開始した。屈辱だ。はっきりと心の折れる音を聞いた。それから、”お前は狂ってる”。幾度も、幾度も。狂気についての専門家だって? 本当に知っているのか? あれにはスイッチがある。恐慌の中に、飢え渇き、凍え、それでも選択肢は与えられる。そうして、そこにあれがいる、その気配、物音、本当に今、それがそこにある、と自身で信じた瞬間から、その世界へ、イン! 前段階の恐慌は、たとえば見覚えのあるタクシー会社の名前を横腹に書いた黒い車。それが私のすぐそばを通り過ぎる。身体が震え、妙な汗が手や脇から噴き出す。耳が遠くなる。ものすごく身近に、狂気を感じる。
「それって、どういう意味でしょう?」
 お前、本物のバカなのか? 考えることを止めてしまったのか? とんだポンコツ機械だ! それを貴様の頭脳に訊ねる為に、この屈辱に耐えて、私はこの場にいるんだろうよ!



 最強の高性能アンプ。私は麻酔の為にアルコールを用いたことは一度もない。酒が魔法の薬であったことも、一度もない。それは常に最強のアンプ。神経の増幅装置だ。



 さて明日は病院だから、今夜こそは何でもいいから食って、寝て、少し顔色よくしておこう。だいたい今日、飲み過ぎだ。千円札一枚持ち、真夜中過ぎに、家を出る。雪。自販機で、ホットコーヒー買いたかったが、迷信のように、子供の頃聞かされた、コーヒー飲むと、眠れなくなるよ、そういう話を思い出して、我慢した。小さな十字路を越えて、いつもの坂道を下る。イヤホン越しに、犬の吠え声が聞こえたような気がして、さては幻聴、雪の未明にいよいよ滑稽、なるほど諦めとは、こういうものかも知れない、などと冷笑気味に思っていると、声はどんどん近くなって、いつか私の目の前に、コンビニエンスストアの灯りの中に、果たして犬はいた。

 小さな柴犬らしい、その犬は、かなりの老犬で、足が萎え、ほとんど立つこと、歩くことすら困難らしく、それでもがたがた身を震わせて、立っては転び、立っては転びしながら、道路の真ん中で、恨めしそうに、短く、何度も、「ワン! ワン!」と吠えていた。イヤホン外して駆けだして、側に寄ってみたら、犬の様子はいよいよ尋常でなく、尾っぽの毛は半分以上抜けていて、びしょ濡れで、瞳は濁り、虚空を睨むようで、実は見えていないのかも知れないと思った。横たわって、恨めしそうに鳴いている。咄嗟に、狂犬病、とも考えたが、何しろ異常に震えている。そっと抱え上げたら、吠えるのを止めて、首と額に手を添えると、震えもだいぶ収まった。犬は、緑色の、革製の首輪をしていた。

 こんな状態で、遠くから歩いてきたとは思えないから、きっと近所の犬に違いない。あんなに激しく吠えていたんだから、だれか知ってる人が迎えに来るかも知れないと、私は雪の中、病んだ、臭い老犬一匹抱いて、コンビニエンスストアの前で、しばらく身を屈めていた。いったん収まった震えがまた出始めて、これはいよいよ死んでしまうかも知れない、そう思ったが、待つことの他に何も思いつかない。そしたら原付バイクに乗った若者が三人、買い物に来たらしく、私のそばでバイクを降りた。
「ねえ、きみら、このへんの子? この犬、知らない? 緑の首輪してる」
「ちょっとわかんないッスねえ。どしたんですか?」
「病気か怪我か知らないけど、ひどく弱って、そこで倒れて鳴いてた。そんなら、病院知らないか? 動物の」
「でももう三時ッスよ…」
「そっか、ごめんね、なんか」
 いつか彼らは、私の隣で、カップラーメンをすすりだした。五分かそこらして、彼らのひとりが言った。
「そこ、ちょっと行くと交番ありますよ。いつ通っても中に人いるから、たぶんこの時間でも平気だと思う」
「あ、そうだった。小坪の交番、人、いるかな。行ってみる。でもよ、あいつら、肝心なときに役立たねえからなあ」
 皆で笑った。私自身、凍えていて、それ以上じっとしていたら、動く気力を失って、犬は死んでしまうと思った。
「じゃ、行ってくる。ありがとね、なんか、ごめん、な」

 私は犬をぐっと抱き上げて、立ち上がると、雪の中、駆けだした。犬は小さくて、軽くて、臭かった。左手の掌に背骨の冷たさを感じた。まだ生きてはいる。でもどんどん冷たくなっていく。私はその犬のびしょ濡れの、冷たい額に自分の額をくっつけて何度も呟いた。
「ほら、もうすぐだ。暖かいとこにいける。絶対飼い主のとこに帰してやる。だからな、まだ、死んじゃダメだ」
 若者のうちのひとりが、私たちを追いかけてきた。
「あの、すみません! これ、懐炉の代わりにでも…」
 コーンポタージュ、缶スープを手渡された。
「ありがとう。ごめんな、なんか」
 左手に小さく冷たい背中を抱いて、右手で彼のくれた缶スープを犬の腹に押し当て、私は赤灯の回る建物まで走った。やはり何度も、腕の中の小さな命に囁きかけながら…。

 運命の歯車も、ごく小さな、大勢に影響しないものに関しては、優しくなめらかであったりする、こともある。少なくとも、老犬の命に関しては。交番の中では、ちょうど宿直らしい、五十前後の警官が、パトロール帰りなのか、レインコートを脱いで、縦長のロッカーの鉄扉を開き、それを仕舞おうとしているところだった。
「すみません、この犬、すぐそこの、ファミリーマートの前で、凍えて、吠えてた。ひどく震えてる。どんどん冷たくなる。この時間でも看てくれる、動物病院か何か、教えてください」
 ベテランらしい交番勤務の警官の声は、落ち着いていて、僅かに気怠さすら感じさせた。
「はい、犬の拾得ですね。拾っちゃったの? とりあえず中入って。それからお名前と住所、電話番号、いいですか?」
 私は犬を抱えたまま、交番の中にしゃがみ込んで、彼の質問に答えた。彼は即座にどこかへ電話をかけ、それから知り合いらしい人の名前を指定して、どうやら電話の向こうのその人に、
「ええ、犬の拾得です。いつもの柴犬じゃありません。相当歳とって、今にも死にそうな感じです。柴犬か雑種か、ちょっとわかりませんけど、首輪をしています…」
 私はぼんやりと彼らの会話を聞いていた。保健所のひとかな? それとも専門の施設みたいなものがあるんだろうか?
「すみません、じゃあですね、こちらの書類にサインを。ここです。フルネームで頂けますか?」
 書類の欄には、権利放棄、と書かれていた。
「これってどういう意味? おれはこいつと約束したんだ。飼い主のとこに帰してやるって。権利放棄? 嫌な響きじゃないか。おれはそんなの、認めないぞ。どういう意味なんだ?」
「まあ、あくまで形式の問題なんですけどね、たとえばこの子が生き延びたとして、飼い主なり、里親なり、見つかったとして、その時に、えさ代の請求とか、うーん、ちょっと待ってください」
 彼は再び電話をかけた。前と同じところらしかった。
「…ええ、権利放棄したくないと言っています。とにかく死なせないでほしいと。はい、首輪は確かにあります。名前、住所等は書いてありません。はあ…、やはりダメですか」
 電話を切ると、彼は座布団一枚、床に敷いて、
「やはりですね、権利放棄して頂かないと、迎えを呼べません。安心してください。逗子市では拾得された犬を、すぐに保健所に送って、その、何というか、殺したり、そんなことはしません。私も素人ですから、この子の状態が、どんなものなのか、断言はできませんけど、かなり歳をとっていて、死にそうに見えます。サインしてください。でないと、どうしようもありません」
 私は書類にサインした。これは同じなんじゃないか? 私の知っている世界。人々。私の苦しんできた、本当の理由。今ここで投げ出していいのか? 最後の最後まで、意地張って、わがまま通して、おまえの死ぬのを…? 死ぬのを? 思考のそのあたりで、私のアンプにスイッチが入って、ぱちんとそれこそ漫画みたいな音を立てて、感情の針が一気に目盛の最大を振り切ってしまった。
「サインした。迎えを呼んでくれ。どんな種類の専門家か知らないが、電話の施設の人に頼んで、こいつ、一分でも長く生かしてくれ。その間に、あんたはそれこそ、専門家だろう? こいつの飼い主、探してほしい。こんな雪の中、寒さの中、あんなに必死で吠えていたんだ。こんなちっこい身体で、満足に歩けもしねえのに。絶対に近所の家だ。たとえ老い先知れていたって、こいつは犬なんだ。飼い主のもとで死なせてやってほしい。その為に、あんなに懸命に吠えていたんだ…」
「はい、だからあなたは、その子をここに置いて、ええ…」
 付き添うことも許されないのか? 看取ることも? いや、不吉過ぎる。おまえの吠えていたのは、私の、こんなうす汚い酔っぱらいの変態野郎の腕の中で死ぬ為じゃあない。絶対に飼い主のところに帰してやる。
「一応ですね、備考欄というのがあります。里親や飼い主が見つかったら連絡してほしいとか、権利放棄した後にも、それなりの対処を希望する場合…」
「いらないよ。そんなもの」
 私は老犬を座布団に乗せ、首と額、抱いていてやると、震えもだいぶ収まるから、と警官に告げて、その交番を出た。冷めた缶スープひとつ右手に握りしめて。

 警官だって人間だ。守るべき生活があり、愛すべき思い出のある、正真正銘の人間だ。こんな時間に、酒臭い、三十間近の大男、臭い犬抱えて、迷惑、厄介かけて、ごめんなさいねって、そんなこと考えながら、雪の中、まだ暗い道を歩いていたら、突然涙が止まらなくなって、いつか再びファミリーマート。子供達の姿はすでにない。ポケットの中の千円はジンに変わった。特別製の最高性能アンプ。ものの十分もしないうちに、書くことを考えている。小さな命の行く末。いいさ、”おまえもおれの一部だ”。病んだ老犬一匹救えずに、何の為の命だよ。だから、物語をくれてやる。



 ところが翌朝、いや、昼か。電話が鳴って、今さら私の電話を鳴らす、酔狂な人間なんて、ひとりだっていたかしら? なんて疑問を抱きつつも、電話に出てみると、老いた女の声。
「あの、××さんでしょうか? わたくしOと申しますが、昨晩は、あの、柴犬のことで、はい」
 こういうとき、私は信じられないくらいのダンディ・ボイス。落ち着き払って、穏やかで、紳士的。
「ああ、飼い主の方ですか? よかった、本当に」
「ええ、あの、本当に、もうひとりで歩くこともできないくらい、危なっかしいお爺さんなんですけど、ちょっとしたはずみですか、何故だか昨晩、あんなことになってしまって。本当にありがとうございます。あの雪でしたでしょう? わたくしもあまり身体がよくないもので、車も出せませんし、どうして探したらいいか、困り果てていたところに、ついさっき警察の方からお電話を頂いて」
「いいえ、わざわざお電話まで頂いて、申し訳ありません。あの子、まだ無事ですか?」
「はい! そりゃあもう、危なっかしいですけど、生きております。本当にありがとうございます」
「いえ、だいぶ凍えていたようですから、暖かくして、長生きさせてやってください…」
 電話を切った。即座に着信履歴を消す。
 ほら、みろ! おれだって、病んだ老犬一匹くらい、救ってやれる。だから、勇気を出せ! 気合いを入れろ! ひとり部屋の中で喚き散らしながら、やっぱり涙が止まらなくて。



 歯車は、今日もごとりとあの冷徹な音を立てて私のもとにも回転し、今夜もひとり私を狂気に誘います。
 羽織った一枚きりの上着に、あの犬の臭気を感じさせながら。
 さあ、今夜も冒険に出かけよう。出し惜しみはよくない。悲しいことが多すぎる。

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2005年02月23日

あと、その一

 きっと知り合い、まだこれしらないだろうから、息抜きに、無分別メモ。ちょっとヤケクソ気味に書く。そもそもidling、そういう目的だしな。もう気をつかうべき友だちなんて、ひとりも残ってないかも知れないけど。でも、自分の好きだったものに、過去も未来もない。”微かに傷つける”だけの、互いにただ退屈で不毛、しかし僅かに不快な”関係”というのが、今でも絶対に発生しないとは、誰にも言い切れない、だろう?



 前回のヤツ、クソだ。最後の会話、見苦しい。台無しだ。美貌をほのめかすのは、女流、或いは詩人の特権。俺は、単なる酔っぱらいだ。バーを愛してる。いや、愛しすぎた。その無能、嘆くべきだろうか? が、消すほどのこともないだろう。記録には意味がある。その前のヤツは、後半、悪くないと思う。

 Wolfgang Amadeus Mozart! Concert K.466。何だかヴェンさえ耳に痛い日がある。どんなに醜いロクでなしのクズにだって居場所があるなんて、話し相手がいるなんて、嘘だ。期限付きで、この暗闇と、十三分だけ雄壮で、あとは生ぬるくって、甘ったるい音楽があるに過ぎない。



 牛乳届けてくれたの、Nさんかな? ありがとう。電気代とガス代払いました。そんなのじゃ褒めてくれないかも知れないけど、だいいち、そんなの自分の為なのだけど、でも約束だから、もう二度と電話しません。



 なぜ俺がバーを愛したのか。彼等は詩や小説を知らない。薄暗がりに無言で(そう、何時間でも、ひとりで)空想する俺を無邪気に愛する。彼等は、読まずとも、知っている。「人殺しの酒」の意味を。知って尚、誰にも語るべきでない、多量、多大に過ぎる、薄っぺらな悲しみを、デカダンスを、無意識に抱きしめ、なのに! 禁断詩編「レスボス」の、あの世界を、正気で、やはり無意識に夢見てる! 自惚れ、ではない。傲慢でもないつもりだ。彼等こそ、俺の読者なのだ。書くというのは、生きることだし、デカダンスは文学ごっこなんかじゃない。生きること、冒険することだ。血みどろで、狂気じみて、幾万の軽蔑、絶望”させた”死体の山の上に。しかも、自己憐憫は一切抜きで! 



 カウンターの隅で、チンピラとアル中がサイコロ賭博をしている。その隣では、店長と、大地主で三代目の実業家氏が、税金対策と、三年後の商売について、話している。俺は誰とも話さない。十分だけ彼等を観察した。それから次の観察対象、客の来るのを待った。運悪く、その後、二時間、誰もこなかった。実業家氏の話はだんだん滅茶苦茶なものになり、来年清掃会社を始めることから、今ある競艇場の利権の扱い、パチンコで十万負けたこと、今度の九百万の仕事、口利きだけのヤクザに三百万持っていかれたこと、麻雀で五十万勝ったこと、声はどんどん高くなり、アル中もチンピラも、話に加わって、手がつけられなくなった。そんな状態で二時間。珍しいことじゃない。いつものことだ。俺は声の高さの他には、彼等がそれほど不快でないし、そもそもその日は、ひとりで少し考え事をするために店に行ったのだ。少し場違いで、店のヤツに悪いとすら思っていた。
「マキちゃん、おかわりつくる? ごめんね、ちょっと賑やかで」
「うん、おかわり、ください」
「オイ! オマエさあ」
 荒れ狂う実業家氏。確かになあ、間が悪い。気をつかってくれたんだろうが、ほら吹きの酔客(いや、彼は本当に金は山ほど持っているし、デカイ仕事もしてる。店の常連だし、あんなに酔ってなければ、もう少しマシな人間に違いない)を相手に、だけど素人じゃないんだ、シモン、タイミングが悪い。
「オマエさ、パチンコで十万負けたことある?」
「いや、パチンコとか、全然したことないんですよ」

 運が悪かった。男達はいつの間にか博打の話に夢中になり、いつか、カジノの話を。それから川崎のソープランドの話。愉快そうに話してる。一瞬、俺も勇気を出して、彼等と楽しくやろうかな、なんて思ったけど、止めた。ボードレールについて考えていた。それから、サキについて。
「ねえ、シモン、おしぼり、もらっていい?」
 右目の毛細血管が破裂していた。鼻血も出始めた。おしぼりで、顔半分、ぐっと押さえて、やはりまた何か詩について考える。何しろ今日はそれが目的なのだ。
 絶好調の実業家氏。
「でな? オイ! お前知ってる? ほんとエグいんだよ、ヤクザ。年間九百万だぜ? 口利くだけで。馬鹿らしくなっちまうよ、なあ? やっぱアレ系はなあ…、いや、まあおれだってカタギじゃ…」



 嗚呼! 私の専門は、生きることと、死ぬこと、それから女性について。自負がある。明確な意思がある。



「なあ、シモン。あのテレビに映ってるやつ、MTV? 今やってるの、第七位? あれ、なんていうの?」
「なんだろう? AIって書いてある? よくわかんない。なに、マキちゃん、ああいうの好きなんだ?」
「だって女の子、すごく可愛いじゃん。画も音も、ちょっと不良っぽくて、素敵だ」

「オイ!」
 大金持ちのアウトロー。町の顔。デカい機械。何かの王。
「Oさん、ダメだって。こっち側はべつ。こっから向こうでしょ?」
「いいよ、シモン。おれ、辛気くせえからなあ。鬱陶しいんでしょう?」

「ちっげえよ! なあ? だから、ヤクザってのはさあ…」
「本当にすみません。どうもおれ、陰気で。いつもこうなんです。でね、カジノ? ソープ? ねえ、おれ、あなたみたいにお金持ちじゃないし、事業とか、経営の苦労とか、六本木の女とか、全然わかんないけど、ね、もう少し、声落としてくれよ。考え事があるんだ」

 ダッセえ革コート。その下のカフス。俺の胸ぐらを? 本気かよ?
「あ、いや! ちょっとOさん!」
「いいよ、シモン。ねえミスター。言ったろ? おれはあなたのこと知らない。楽しい時間、邪魔するつもりも全然ない。酔ってんだろ? ね、ちょっと失礼だと思うけど、おれの目、今片目だけどさ、見てみ。ほら、ね。わかるだけの脳みそ、残ってる? うん、いい目。だからな、大声を出すな。おれに聞こえるように、知った風なことを話すな。今日は大事な日なんだ。詩について考えてる。しかも、冴えてる。考え事の邪魔をするなら、本当に殺すぞ。争いごと、好きじゃない。恨み合うのも、憎むのも。つまんないのはよそうよ。俺は今夜まだやることがある。考え事、だね」


 いつもの階段を降りる。やたらと風が強くって、嵐の気配。
「マキちゃん、ホントごめん。ありがとう」
「え? いやおれこそごめん。ごちそうさまです。ごめんね、ほんと」
「車、呼ぶ?」
「今日はね、まだ考え事、あるんだ。だからいい」
「歩くの?」
「シモン、知ってんだっけ? 俺のこと?」
「知らない」
「ん。ならいい。じゃあね。あと一軒。そのあと海に行く」



 俺は自分を隠すのは好きじゃない。知られたくないなら、騙す。暴かれて、見透かされて、嗤われることは、孤独とは違う。



 昔おれの肩にライブカメラをつけておいたら、いい見せ物になるのにね、なんて言ってくれた友だちがいた。真夜中、砂まみれ、びしょ濡れの血塗れで、潮風にガンガン叩かれながら、逗子の砂浜を歩く。ちんまりした、俺の大好きな海。だけど風のせいで波が白く泡だって、いかにも俺向きな感じ、夜空に雲が、あの独特の速さで、銀月はかの女の軽蔑、失望の白眼を思い出させてくれたし、信じられないかも知れないけれど、無人のそういう滅茶苦茶な現代の荒野に、俺はボードレールを叫んでいた。憂鬱と理想 詩篇五十七「或るマドンナに」だったか。何度も転んだし、吐いた。倒れるたびに、解放される気がした。だけどそれに甘えちゃいけない。走って、走って、岸壁を乗り越えて、最高の場所で! 狂ってると思うんだろう? 不思議だなあ。俺は正気なんだ。デカダンスは文学、芸術ごっこなんかじゃない。



 さっぱり意味がわからないのだが、曙に、海岸道路の交通整理の警備員に殴り倒されていた。彼はいい目をしていた。私のことなんて、絶対に”知りたくない”という、いい目をしていた。私があの海に、飛び込むとでも、勘違いしたんだろう。どうも、そのことで一悶着あったらしい。私は半分海に転落していた。濡れて、冷たく、彼に言わせれば、「死んでいるように」見えた。


 すこし疲れた。続きは今夜、書ければ書く。

posted by kawai toshio at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月20日

裏切り

 私にはただ教養と経験と、才能の足りないだけで、愚昧厚顔、無能ななりに、今のやり方自体は、間違えていないと思う。

 雪になった。少し吹雪いてる。悪くない。
 いや、深夜に街灯を見上げて、そこに冷たい結晶の舞っている様を見るというのは、ひどく気分のいいものだ。そう、ようするに、いい夜だった。が、それを語るべき相手はいない。言葉など、人間も含めた、自然に対する抽象にすぎない。私の書くより人との対話を好むのは、それがまさに捨象であるからだ。文言になった後の残滓、人間。傲慢だ、なんて批判は置いといて、だって、然より言葉を抽出するこの苦痛! 貴様等、真面目で有能で、多才で、苦悩に満ちた美男美女に解るかよ。工夫はやらしい。虚しく不潔な思考の努力を経て、痴呆じみた戯言、人間。それを語るは、至上の享楽(相手が美人なら、尚よし)。が、今宵はその相手もない。

 言葉に対して、真摯であれば、その者は、狂者に同じ。私より立派な、私の大好きな人たちが、私を軽蔑する。

 一日経った。経過の為に、己の全部投げ出した。大げさ過ぎる? やっぱり気が狂ってるって思う? 正気だよ。ただ、でないと世界を消費できない。当然のことだ。

 血走った、朝。
「やあ。婆さん。いや、ママ。朝からパチンコ?」
「あら、見違えたわ。髪、ずいぶん伸びたんじゃない?(しばし、沈黙)そんな目、たった今、人を殺してきたみたい」
「それは、ずっと昔の話。今は、おれが殺される側。こんな感じにさ、無防備に」
「もう、せっかくハンサムなのに。しゃんとしよう。また痩せた? お金、いるの?」
「あんまり、甘やかさないで。知ってるでしょう。おれ、偽物だから」
「泣いちゃだめよ、色男」
「いやだ。うるせえよ、ババアって、いいたい。テメエに何が解るって、いいたい。でもおれ、たったの二へんしか会ってない、あんたに、そういえない。やめてよ。みんな、真面目に生きてる。だから、おれ、ひとりでいたい」
「うん。だからね、泣いちゃだめ、色男。格好つけて、堂々としてなさい。素敵よ」
「やめて、やめて。終わらせたい。苦しいからね。けど、あんたには話したくない。若くてきれいな、無知に漠然と、おれに好意を持ってくれる、そんな女の子がいい。そんな子に話して、終わらせたい」
「…抜群なんだけどねえ、マキ。私も、もう三十若かったら、ね」
「いやだよ。婆さん、ママ。もう話し掛けないで。おれは嘘つきだ。ひとりでいたい。生きてるの、恥ずかしいんだ」




posted by kawai toshio at 12:33| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月18日

鏡 静謐 narcissus

 リアル、ねえ。

 いい詩を書く、あなた。だから私は、も一つ向こうまで。すべての嘘が暴かれるまで。ひとりの観客も読者も、居なくなるまで。どうも、私にとって、努力とは、怠惰のことであるらしい。苦しくない、ごめんなさい、そういう生き方です。威張ってるんじゃ、ありません。だって、今でもやっぱりあなたに憧れています。



「ああいう人はね、そりゃあもう絶対、友情や恋愛なんて、一生経験しないんですよ。全部作り事です。役者、舞台中毒とでも言うんですか? 自己愛がひどすぎるんです。自分を憎むことと、愛すること、二つしか頭に無い。あれは天性ですよ。絶対にね、人間らしいまともな感性を持った人なら、誰だってあんな人、相手にしませんよ」
「だからさあ、騙されるバカがいるから、本人増長すんでしょ?」
「ハッタリ屋。ようは、怠け者なんだよ」
「ちょっと世の中知ってれば、わかりそうなモンだけどねえ。あんなの一目見て、薄っぺらなインチキだって、スッカスッカの能なしだって」
「だから、ハッタリ屋」
「あれは人間なんてこれっぽっちもわかってないよ。だからあんな幸せな脳みそでいられんでしょ。普通、引きこもっちゃうよね、あんだけピントずれてたら。だけど本人、全然気付いてないし、永久に気付かない。幸せっちゃあ、幸せかもね」
「天性」



「おまえ、バカだな」
「え?」
「いや、ゴメン。違うな。バカじゃない。なんてんだろう。俺が知ってることを、知らない。なんでだ?」
「知りたくねえんだよ。犬の糞以下」
「それだ。俺は糞以下か? 冗談。そのものだ。その違い、わかるか? 意味が? なあ、おまえ、頭も悪くないし、才能も未来もある。恋人もいる。友だちも。たぶんいい奴なんだろう。だけど俺が知ってることを、何故知らないんだ? 俺はおまえを尊敬したい。好きになりたいんだよ。なあ、本当にわからないのか? きちっと目開けてるか? あれが何か、わかるか?」
「バンドマン?」
「死だよ。油断も無いのに、あのツラ、あの目。あれは死だ。マンじゃない。俺は糞以下なんて上等なモンじゃない。糞だ。道端に落ちてる。そこにある理由を誰も詮索しない。意味や価値なんか無くても、そこにある。それだけのことじゃねえか。本当にわからねえのか? そんな顔するな。おまえ、木っ端に見えるぜ。まるで能なしのクズに。やめろ、俺は好きになりてえんだ。ウンザリさせるな」



「いやだね。いやだいやだ。今、何を考えてる? 部屋なんか来たって、べつに面白くないぜ? 何もない。見せるべきものも、話すべきことも。止めてくれよ、ねえねえ、車、降りよう。ほら、珍しい嵐だ。割に月は澄んでる。空、見てみなよ。嵐だ。風も暖かい。ほら、どきどきしない? あんなに雲が速い。すごくわくわくする。きみのね、車にいるあいだ、ずっとこれのことを考えてた。早く、今夜の空が見たいって。きみは、何を考えてた? 今、何を考えてる? ロマンス? 女の子くさい、ドキドキ? 俺はね、自殺の仕方。さあ、何が聞きたい? 何を知りたい? わかるよ。ごめんね、年嵩ぶって。でも、ああ、きみが何を考えているか、大体のことはわかる。すごく素敵で、つまらないことだろう? でもね、少しのあいだ、我慢して。この空気、嵐もね。それでぐっと胸張って、首から肩、腕から指先に力を入れて、上半身がパンクするくらい、力んで。こいつは翼だって、信じるんだ。それでね、少し助走をしたら、あのマリーナの堤防から、パーッて飛び立つんだ。うん。だけど、こいつは翼なんかじゃない。なあ? こいつは翼なんかじゃない。泣かないで。素敵な空想、止める必要なんてないんだから。音楽でも聴こうか? 仲良くしよう。ところで本題。お金、貸してくれないかな? ピストル、欲しいんだ。このクソ頭、吹っ飛ばすの。今度こそ、絶対に生き延びられない…」

 オイ! なんでもいい。さっさとあの鬱陶しいキチガイを殺せ! あれはダメだ。

 アパートの前の空地で、自生らしい水仙の蕗を引きちぎる。弾みで尻餅をつく。
「ハハハ。ねえ、そろそろ本気になってきた? やめてよ、そんな顔。女くさいの、やめない? ほら、こいつの何が一番イカすか知ってる? この可憐な花、三つ。知ってる? 香りだよ。ラムネに似てる」
「ごめん、アハハハ。俊くん、ごめん。私、解っちゃった」
「いいねえ。いい笑い方だ。やっと本気かよ。馬鹿のフリすんの、やめた?」
「うん。私ダメだ。ちょっと、ついてけない。解るんだ。子供じゃないよ。馬鹿じゃない。今更、そういうの、勘弁。それ、キツいよ。絶対、無理」
「うん。そんなこと、最初から解ってたじゃん? だけど、いい謝り方だね。きみがどんだけ優しくて、知性的か、よくわかる。謝る必要があるって、感じられたなんて、たぶん天才。こうして、嘘っこの翼で、力強く…、それで間抜けな目に? ハハハハ。冗談じゃねえってな。ね、悲しいことなんか、一つもない。ついでにきみに必要なものも、ここには一つもない。わかったろ? 俺が何か。俺はね、目玉の形に似た、小さな神様。誰の頭の隅にもいる。人にとって一部であるものが、俺には全部。結晶だよ。俺はそういう種類の、新しい神様。何処にでもいる。ねえ、泣かないで。すごく可愛いのに。ねえ。フラ、踊ってよ。俺、まだあんたの名字も知らない」



 宇田川、クラブG

 マンスフィールド? サローヤン? いやいや、今日はね、ボードレール。「愛し合う男女の死」を? 「貧しい人たちの死」は? 或いは「一日の終り」。え? 興味ない? そりゃ残念。そんなら太宰の「秋風記」は? 恋愛小説ってのは、あんな風に書くモンだと思うんだけど。え? 興味ない? 失礼。ねえ、バーに行っていいかな? 踊りはいい。音楽も好みじゃねえ。こんな場所に、もう一秒だっていたくない。俺、自分がキチガイだなんて、夢にも思わなかった。そりゃ失敗はたくさんしたさ。だけど成果はあった。自己憐憫てヤツを完璧に殺せた。自信の本当の意味も見つけた。目的もできた。対価? 俺は寿命しか持ってねえからな、あとは出世払いだ。取り立てられたって、無い袖は振れない。え? 興味ない? ハハハ。だよな。俺、キチガイだったんだ。関係の中の俺は、狂人。頭狂ってんだって。信じられないよな。俺、まだ信じられない。そんなことってあるのか? そうそう、アーニーは? パパ、ヘミングウェイ。「オカマ野郎の母親」は? そう、興味ないか…。まあいいさ。自分のやり方だ。それを通すなら、ひとりでやりゃいいってだけのこと。こいつだけは、憶えておいたほうがいい、ベイビーちゃん。で、そんな目で見るな。関係の外では、俺はまだ狂っちゃいないんだからな。オイ! ジョーゼフ! くそったれのイスラエル野郎! 何でもいい、トランキライザー。それからジャック、トリプルロック、二つだ。
「マキサーン、お酒、イイノ?」
「ああ、いいんだ。向いてねえんだよ、たぶん。それからさ、マキって呼ぶな。女みてえだ」
「お金は?」
「ねえよ。いや、五千円ある。それと鼻血と寿命」
「オッケー!」



 ボードレール 藝術家の死 
 (前略)
 一生かかつても彼等の「理想の像」を成就出來ない藝術家もある、
 これ等呪はれた、落伍した彫塑家達は
 われとわが胸や額をむしつて口惜がるが、

 彼等にもまだ一つだけ希望は殘つた、(これは風變りで悲しい藝の奥義だが!)
 「死」がやつて來て、新しい太陽のやうに天に昇つて
 彼等の頭の中の花々を咲かせて呉れるかも知れないといふ希望!



 雨。懐かしい色々なことを思い出す。雨にはロマンチックな思い出がたくさんある。けれど、よくよく考えてみれば、いや、錆びて退屈に慣らされた今の頭脳で思考してみれば、いかなる時も、俺を無視し続けた賢人と、俺を許さない善人としかいなかった。裏切ることと、甘えること、試すこと、想像することなどを、絶対に許せない人間がいる。俺は俺を含めた小曲、ソンネを想う。いかなる場合も。人生は、人間は、ソンネに過ぎない、というのはさすがに冗談だが。明日の予定も、将来も、家族に対する遠慮も、義理も、およそ人間らしいと言われている”習慣”の、すべてに苛つき続けてきた。考えがあってのことじゃない。そんな風に生まれついた。理解できる回路を持っていない。変わるチャンスは幾らでもあった、のかも知れない…


 パンドラの美しかったのは…、いや、女性というのは、あのパンドラの物語の、美の核心を、自然に備えている。その幾億の瞳に、私は溺死した。



 飲んだくれるってこと。明日の予定、仕事、約束、リズム、家計、良識、分別、すべてに目を瞑る。明日を捨てる。明日だけを。バーには希望などない。慰めも親切も、刺激も出会いも、感傷も。新鮮で有意義なあらゆるものはない。バーの男達は、全員そんな風に目を瞑っているべきだ。センチメンタルというやつは、常に血に飢えている。安息とは、怠惰と同義。スピリッツの羊水。バーという子宮。
「いつもので?」
「なあ、パリでは、違うのか?」



 二日間、酔い続け、三つの物語について考える。Yさんを抱きしめる話。自己憐憫を抱かずに泥酔する奥義。実践主義教育的な死。懐かしい恵比寿のバーへ。相変わらずスカしたクズたちが、ロクでもない飲み方をしてる。
「なあ、タン、トウ。ボリュームを下げてくれ。考え事があるんだ。あとな、好みじゃない。ビリーにしよう」
 大気は雪の降る前みたいに程よく湿って、けれどそれほど寒くはない。俺の一番好きな空だ。ロマンチックな曇天。海の側に戻りたい。そこで、あらゆる誤解を受け入れたい。


 苦しくない、悲しくない、むしろ皆さんごめんなさいね、そういう生き方だ。好きでやってる。だいぶ学んだから、今度こそ、平気だと思う。携帯電話のメモリーも全部消した。ガッツは取り戻しつつある。小説を書く。Kさんと、インターネットに、感謝。で、お願いなんだけど、誰か五万円貸してください。お礼に、ええと、我が家の水仙を。その一言が言いたくて、十枚書きました。いくらか身体を削って書いたつもりですが、それすら自己の陶酔に過ぎず、読者につまらなかったら、ごめんなさい。
posted by kawai toshio at 12:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月01日

Jazz Vo

 しかしCassandra Wilsonってのは、胸の張り裂けるほどによい声で歌う人だね。
posted by kawai toshio at 06:53| Comment(3) | TrackBack(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月23日

あの小さな十字路まで

 猛烈な吐き気と寒気。やけにげっぷが出る。しかも腐敗したヘドロのような臭い。空き地の隅で吐いた。信じられないくらい、大量の、何だろう、やはり腐った粥のようなものが出た。二度、三度。げっぷと同じ臭いだった。おかしいな、ここ何日も、レタスとコンソメしか口にしていない。今、俺の腹の中から出てきたものは何だ? どう見てもバケツ一杯ある。こんなもの、どこに仕舞われていたんだ? それにこの臭い。いつ食ったものだ? 気味が悪かった。胸と腹がいやに冷たかった。風邪でもひいたのかと思ったが、全身が冷たすぎて、熱があるのかどうか分からない。少し歩いて、ランチタイムの知人の店に入った。
「便所、借りる」
 とだけ言って、席にも着かず、二階の便所に入った。正面の鏡を見る。ほんの三十分前、家を出たときと、まるで人相が変わっている。白くかさかさに干からびた肌、目の下がどす黒く内出血したみたいになってる。ズボンを下ろして便座に座ると、下痢とさえ呼べない、無論便ですらない、やはり大量の水が出た。臭いは感じなかった。三度出た。汚い話だが、洋式便所から、溢れそうなほどの量だった。おかしい。こんなにたくさんの水分を摂った覚えはない。どこから、何が出ている? 寒気と吐き気、不快感、悪性のなんとか、そういうものが、耐えられないほどになっていた。カウンターに座ってコーヒーを頼む。
「あ、そういえば俊くん、Hちゃん今夜マフラー持ってくるって」
 マフラー? 何の話だろう。一分くらい考えて、俺がいつも、あんまり貧乏くさい格好ばかりしているから、店員の女の子が、お古のマフラーをくれるって話を思い出した。
「ああ、夜、来れたら来るよ」
「なんか、具合悪そうだね」
「下痢。あと、身体の中からヘドロみてえな臭いがする」
 コーヒーには、口をつけられなかった。なんとなくヤバそうな感じがして。店を出て、それからパチンコ屋とマクドナルド、駅で便所を借りた。いったいどうなっているのか。どう見ても、ここ数日のうちに摂取した以上の、いや何倍もの得体の知れないものが、上からも下からも排泄され続けている。悪寒がひどくて、家に引き返す気にもならない。ねじ伏せられるレベルではなかった。俺はいつも無茶をやらかしているように見えて、それほど馬鹿じゃない。これは異常だ。酒の飲みすぎで血反吐を吐いたり、胃がつぶれて激痛を味わったりするのとは全然違う。弱気になって妙な妄想に頭がやられてるとか、そういうことでもない。身体がまるで反応できない。僅かな時間で、俺は突然自分の肉体を失いつつある。さらさらの鮮血。鼻血だった。すすって隠すなんて不可能な量だった。恐ろしく滑らかで、色鮮やか。本物の鮮血だ。菜っ葉色の上着の袖が、見る間に黒く染まる。車を拾った。運転手に横浜の病院の名を告げた。兄貴が勤めてる。俺にしては、いい思い付きだ。

 待合ロビーには、大勢の病人がいて、巨大な電光掲示板に表示される数字を睨んでいた。間抜けなことに、俺はどこに行って、何をしたらいいのか、見当もつかなかった。病院は大きすぎた。国立の総合病院。保険証も診察券も持っていない。ついでに金も。テレビの真下にある長イスに横たわった。考えろ。映画のチケット売り場みたいな窓口がいくつもあった。あそこか? わからない。その窓口が並んでいる大きな部屋の脇に扉があって「事務局」と書かれたプレートが掛かっていた。あまりにも不快な悪寒と吐き気と腹痛の為に、動くのが億劫だった。けれど行かなけりゃならない。扉を開ける。きっと職員用のものなのだろう。扉に一番近い机にいた女がちらりと振り返った。いろいろ考えたり、計算したり、他人をコントロールしたりする力は、もう全然残っていなかった。その女に兄貴の名前(ようするに俺の名前でもある)を告げた。弟だ、とも言った。ロビーのテレビの下にいるから、手が空いたら来てくれるよう伝えて、またテレビの下に戻った。案外早く兄貴はやってきた。と思う。はっきり憶えていない。ほとんど意識を失っていたから。
「おい、お前、どうした?」
 兄貴は笑みすら浮かべていたように思う。
「混んでるな。手が空いたらでいい。手の空いた先生いたら、看てくれるよう頼んでくれ」
「どうしたんだよ?」
「具合が悪い」
「そりゃ、見りゃわかる」
「酒じゃねえ」
「ああ」
「食ってもいないもんを吐き、飲んでもいないもんが出る。鼻血が止まらねえ。それからハンパじゃなく腹がいてえ。吐き気と寒気がどんどんひどくなる。あとな、保険証と金がねえ」
「わかった。頼んでみる。七時くらいかな」
「悪い。あと、できれば点滴くれ。ここでいい。誰か看護婦よこしてくれ」
「ああ…」

 気がつくと看護婦が俺の顔を拭いていた。
「弟さんなんですって?」
「ああ、どうもすみません。忙しいとこ」
「すぐね、先生も来ますよ。それじゃ、上着脱いで」
 点滴は、冷たくて清潔な白いシーツに似ている。とてもいい気分だった。すぐにまた気を失った。

 車イス。手の空いていたのは宿直の脳外科医で、ベッドは呼吸器にひとつ空いているだけだった。軽い問診を受けて、点滴と薬を一晩入れ続けた。身体を巡るそれらの液体は、ひんやりしているのに、なぜか寒くはない。翌日、検査のためと、どうせしばらくは薬を飲むことは出来ないだろうから、一週間ほどの入院を勧められた。十二指腸潰瘍。食道炎、急性胃炎。諸々の神経障害。動けないってほどじゃない。身体はだいぶ落ち着いていた。一週間のベッド代など払えるわけもない。おまけに明日は仕事だ。
「いや、すぐに退院しますよ。薬もいらない。今日一日、点滴だけもらって、出て行きます」
「そうは言ってもねえ。まだロクに検査もしてないし、体力も相当落ちてるみたいだから、少し休んでいってもらわないと」
 昨日とはまた違う医者だった。けれど医者ってのは、みんな同じだ。有能で親切な医者も、そうでない医者も。俺みたいなポンコツが一週間も仕事を休めばどうなるか、まるで想像すらできないんだろう。午後に兄貴が訪ねてきた。
「よう、どうだ?」
「かなりいいぜ。マジで助かった。感謝してる」
「おう、で、お袋には伝えておいたほうがいいか?」
「いらねえよ。今日退院する。手続きと清算頼む」
「保険証ねえんだろ? どこに請求すりゃいいんだ」
 兄貴は笑っていた。
「まあ、いいさ。そんなヤツいくらでもいる。金のことは気にすんな。で、大丈夫なんだな?」
「ああ。そういや兄貴、結婚式以来だな。あんたこそ、元気かよ」

 夜には逗子に帰っていた。吐き気はもう感じなかった。胃の痛みと、ちょっとした寒気、下痢はまだ続いていた。が、それほどひどい状態ではなかった。あと一日眠れば、きっと何とかなる。しかし一気に家まで歩くことが出来なかった。なるほどたったの一日で、ずいぶん衰弱している。休憩が必要だ。バー。
「あ、俊くん! マフラー持ってきたよー」
「あ、そう。昨日ごめんね。ちょっと具合悪かった」
「うん。でも相変わらず寒そうな格好」
「今夜は暖かいぜ。いい夜だ。なあ、Mくん?」
「そうっスね。最近ヤバいくらい寒かったから。今日はだいぶマシですよ」
「えー、超寒いじゃん! マフラー、車に置いてあるから、ちょっと取ってくるね」
「コーヒーでいいっすか?」
「しょうが湯」
「そんなもん置いてないっすよ」
「じゃ、コンソメだ」
「マジっすか? やべー、面倒くせー」
 バタバタと入り口のドアを乱暴に開く音がして、彼女が戻ってきた。
「ヤバい! 超寒い! ハイ、俊くん、これ。無地の黒だから、男の人がしても変じゃないと思うけど…」
「うん、ありがとう」
 しかしマフラーは確かに黒だが、隅に小さな、いかにも女性ブランドらしい、かわいいピンク色のタグが付いていた。

 コンソメを飲みながら、しばらく三人で横須賀の波について話をした。店員も客も、この店の連中は大概地元のサーファーだ。そして店の二階では、男が二人ハシシを食らいながらダーツに興じていた。
「それじゃ、行こうかね。また身体が冷えちまう前に」
「どうもありがとうございます」
「うん、ごちそうさん」
「そうだ、俊くん、酒止めて、いいことあったじゃないっすか」
「いいこと? なにさ?」
「Hちゃんにマフラーもらった」
「それって、いいことか?」
「えー、ひどーい。いいことじゃん」
 少し考えてみた。ピンク色のタグ…。
「べつに、いいことなんかじゃねえだろ」
 皆、笑った。

 店を出る。やはり暖かい夜だ。
「じゃあ、俊くん、次はシャツだね。それ、すごい寒そうだもん」
「そうか? 慣れたから、何とも思わねえな」
「風邪ひくよホント」
「じゃ、ごちそうさま。マフラー、ありがとね」
「うん。気をつけてね」
 暖かい夜。精一杯の愛想笑い。看板娘の気負い。冷笑。ひとり呟きながら、といって何か考えるわけでもなく、ただ歩く。いい夜だ。海風がざらついた舌で俺の皮膚を舐め、灰を削ぎ落とし、吹き飛ばし、それがさらさらと背後に尾を引いて、舞い上がる。いい夜だ。ミスター・ハードボイルド。いつもの俺。何も問題ない。
posted by kawai toshio at 13:40| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月19日

断酒二十日目

 随分身体は慣れてくれた。辛いのは最初の一週間くらいだろうと思っていたが、本当に苦しくなるのは、身体も慣れて、美意識や自制を取り戻し「今の俺ならもう平気だ」と僅かにでも自信を回復し始めてからなのだ。もう、前のようにヤケクソな飲み方などしない。どうしても眠れない明け方に一杯。寒い夜道の一人歩きや、一時間半の電車通勤の友に。連勤明けの開放感や、三日ぶりに熟睡できたときの安堵から。或いは、憂鬱。だけど俺は知っている。一口でも飲んだら終わりだ。ここで折れてしまったら、二度と戻れない。だから、次に酒を飲むときは、本物の覚悟ができてからだ。あらゆるものを拒絶して自分の殻に閉じ籠もり、無限の暗闇の中で孤独な死を待つ。それを受け入れる覚悟ができたときに飲む。それ以外には、いかなる理由(油断や息抜き、刹那主義や自殺)があろうと、飲まない。俺には頼るべき人も無く、自分自身を救う力すら無い。すべての時間を自己嫌悪と憂鬱が支配している。甘い空想を黙殺する。希望を否定する。今の俺を支えているのは、目的でも未来でもなく、自分自身でもなければ、他の誰でもない、飢えと、寒さと、疲労だ。無機的な鎖だ。情けないことだとは思うが、今の俺にはそれしか方法がない。
posted by kawai toshio at 05:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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