2005年04月07日

あのね

 忙しすぎて家にも帰れない日が、幾日も続いた。毎日店で寝泊まりした。たぶん俺にはもう無理だって、何度もパニックを起こしながら、思った。一晩中私を抱きしめていてくれたTちゃんという小さな、けれど本当の名前を持った命があって、私は眠る前、それから起き抜けに、その娘のいい匂いのする額にキスをした。とにかく地獄みたいに忙しい、半狂乱の一週間が終わって、しばらく改装の為に店を閉めることになった、その最後の晩にも、やっぱり私はあの娘にキスをした。何故だかあの日も、いや、全部が終わって、あとは工事業者の来るのを待つだけになった、あの日にも、やっぱり私はあの店で眠ることになって、そしてあの娘は泣きながら私の頭を抱えて、でも私の無理に客席で眠ろうとする姿勢がヘンだよって、涙の出るくらい笑って、いつか資材の搬入が始まり、私は優しくあの命に触れられ、起こされ、二人して、宇田川のあの店を出た。私は教えてあげた。スキップ、ジャンプ、空中で両足を前後に振って、ワン、ツー! こうやって勇気を出すんだ。知ってる? サローヤン。ウィリアム・サローヤン。彼の小説に教えてもらった、特別なやり方。元気を出すんだ。ガッツだよ。生きるって、死ぬことから、逃げ続けることなんだ、生きること、死ぬこと、同じ現象に二つの呼び名がある。憂鬱になることはある。不安になることもある。怖いことも、みっともなくて生きていたくないって思うこともある。でも、勇気出して、張り切って、さ。真似してごらん! スキップ、ジャンプ、ワン、ツー! ほら、恥ずかしくなんかない。きみはおれを怖がらなかった。嫌わないでいてくれた。親切にしてくれた。髪に触らせてくれたし、何日も抱きしめていてくれた。だから教えてあげる。特別な方法。スキップ、ジャンプ、ワン、ツー!
 私たちは、渋谷のあの、ハチ公前のスクランブルで抱き合った。
「Tちゃん? すごくいい匂い。マジで女の子って素敵!」
 精一杯に抱きしめて、あの娘の頬にキスをした。それから、じゃあねって、最後にもう一度さらさらした不思議なあの頬に触れて、さて、サングラス。サルバトーレ・フェラガモ。きちっとスタイルを整える。
「愛してるよ。きみだけじゃない。みんな、愛してる。愛してやることの他に、何が出来るってんだ? 見える? 俺には翼がある。他には何もない。愛してる。精一杯にやってるつもりなんだ」
「お兄ちゃん、きっと帰ってきて。わたし、大好きなんだよ。みんなも大好きなんだ。だから、帰ってきて。特別なやり方? もっとたくさん教えてよ」
「うん。きっと、帰ってくる。だから泣いちゃダメ。ね、だからTちゃん、笑って。きっと帰ってくるよ。俺も精一杯に愛してる。他にやり方を知らない。愛してる、愛してる。走ろう。俺がイカレてるって? イカレてるのは俺じゃない。他のみんなさ。Tちゃん、俺が愛してやる。だから泣いちゃダメだ。元気出せ。花も買ってあげる。抱きしめてあげる。そういうのキモい? おっかない?」
「ううん。やっぱり俊さんのこと、わたし大好きだ」
「そんなら、走ろう。張り切ってやろうぜ。俺だって最近憶えたばかりなんだ。まだ全然様になってない。でもいつか、格好良くやれる時がくるさ。ね、だから、スキップ、ジャンプ、空中で、ワン、ツー!」
 泣いちゃダメだ。私はお別れのキスをした。あのさらさらした不思議な頬に。その命を心の底から愛おしいと思った。



 旅行屋に電話する。石垣島のコテージを借りた。しばらく、南の島に行ってくる。帰ってくるつもりだ。ただ、今は何も考えるべきじゃない。今から羽田のホテルに向かう。
posted by kawai toshio at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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