2005年03月15日

長くなりすぎたみたいでいっぺんに載せられないから続きは後日

 何故だか突然電車の中で、昔のやり方を思い出した。ここ数ヶ月、ずっと忘れていたやり方を。
 泣き言、言うな。俺の命は一日一回転。朝にはいつも、何もない。けれど、タフだ。世界の誰よりも。鋼の身体と、唯我独尊。愉しい時代があった。愛と善に満ちた時間が、僅かだけど、そんなに遠くない過去に、おれにもあった。それを思い出せ。そのときおれはどんなだった? デカダンスなどクソ食らえだ。おれは誰よりも強靱な肉体と、特別合金製の心を持った、本物の怪物。狂人であったとしても構わん。感性など殺してしまえ。センチメンタリズム、儚く神秘的な、オリーブ少女的世界? クソ食らえだ。この生命力をみよ! 命とはこういうものだ。

 思い出した瞬間に、職場の上司に連絡した。今月後半のシフト、おれ週六日、朝から閉店までの通しで構わん。社員のあなたばりに、出勤するよ。バチッと組んでくれ。信用できないかも知れないが、ひと月くらいは大丈夫さ。で、Sさん、週に一度か二度、半休取れるでしょう? まかせとけって。やってやるよ。エンジンさえかかりゃあ、おれは止まらんよ。安心して。絶対に仕事中は酒を飲まない。おれはつくづくタフに出来ていてねえ。ひとの心配をよそに、フル回転してみせる。



 帰路の電車の中に、懐かしいNちゃんを見つけた。私たちは互いを認識しながらも、気付かないフリを続けた。彼女は私のような人間が嫌いだった。いい加減で、自分に甘く、他人にも甘い。いい歳こいた、このオッサン、なんでこんなにだらしがないのさ? そういう神経質なところのある子だった。だから仕事も辞めてしまった。こういう私を受け入れる、職場に、その責任者、或いは全体の雰囲気に、嫌気がさした。私はすべてを思い出しかけていた。それはそれで、構わない。何故って? そういうものだからさ。
「あれ、ひょっとして、Nちゃん? 懐かしいねえ」
 相変わらずのにやけ面。すっからかんの、虚栄の抱擁。
「あー! 俊さん? まだ生きてたんですか?」
 いーい台詞。素晴らしい言葉。娘っこよ、軽蔑すべき私はまだ生きておりましたよ。私はただこの子の終電の横須賀線で、疲れ切って、うつむいて、尚、ピコピコと携帯電話でメールを書いていないという事実に、感動しました。必死にヘッドホンで、音楽に聴き入っていた。思い詰めたような目で、じっと自分の足下を睨んで。世界は完全に狂っている。私はそのことあなたに教えてあげたくて、抱きしめてあげたくて、けれどそれって、とんでもなく迷惑なことだから、歳とりすぎたのか、そういう分別の為に、私はやっぱり昔のように笑って、
「Nちゃん、目立ってるぜ。も少し普通にしたほうがいい。酔ってるわけじゃないんだろう? いつか必ず幸福になる。相変わらず、お人形みたいに、きれいだねえ」
 言葉に出した瞬間に、絶望する。いや、発狂する。あの子、少し驚いたような顔をして、それから、やっぱりうつむきがちに微笑んで、恥ずかしそうに、でもリモコンの停止ボタン押してくれた。私はこれで最後だってくらいの気持ちで、勇気を出す。
「きずつけたかね、おれのもの言い。ごめんね、なにしろ、今でもこんな調子」
 最後に彼女に会ったのは、いつだったっけ? 去年の夏に、私の多摩川に飛び込んで、溺れて、数キロ下流に流される、その直前に? 
 とにかく、彼女は、私よりずっと早く電車を降りた。



 恋愛について、四十枚書くと約束したのに、書けませんでした。全部、私の怠惰が原因です。生きてるだけで、ひとを傷つける。男も女も。ただ私がだらしないという、まったくくだらない理由の為に。信用と信頼の違いについて、酔って私に説いたのは、チャーチンだったか? 台湾人のあの青年は、まっこと無垢で、ほとんど白痴に似て、けれど”力”ばかりは眩いほどに輝いて。もういやだ、生きていたくない、と思わないでもない。でも、ダメ。許さない。恥辱と侮蔑の中に生きる義務がある。泣き言はやめろ。自分で選んだ。負い目の完全に消えるまで、いけるとこまで突っ走れ。鋼の心臓、オイルの血。おれは怪物。生まれてこのかた、人間であったことなど、ただの一度もない。



 書こうと思ったんです! 大量の嘘を! だけどあのひと、ひとつだけおれのこと褒めてくれた。
「いつも、じゃあねって、お別れするとき、すっごく悲しそうな目をするでしょ? ちょっと衝撃的なくらい」
 それからあの子、私に十万円、手渡して、
「これはね、あなたが幸せになる為のお金です。絶対に幸せになってください」
 いや、その前の晩に、私は泣いたんだっけ? 苦しくて、申し訳なくて、泣いたのだ。もういやだって、弱音を吐いたのだ。そしたらあの子、
「こんなかわいそうなひと、放っておけるわけないじゃないですか…」
 私は十万円握りしめて、遠く奥羽へ逃げ出しました。毎日酔っぱらって、宿の女将さんにもさんざん迷惑かけて、ほんの十行だって書けませんでした。それから? それから? 本当の話を。そう、ほんとの話を書こうとしました。私の全部を、正直に、今度こそ、自分を救う為と、それが他人に役立つかもしれないって信じて。確認の電話を、何年も前に離れた女のひとにしました。おれのことを書く、今度こそ本気だ、死にもの狂いで書く。だから教えてほしい、あの頃、十年も昔、あなたがきっと、本気で、心底愛した私は、どんなだった?
「はかない感じ。ほかの誰よりもね、透き通ってて」
 無理。もう書けない。どだい、無理な話だったのだ。私は小説屋向けの男じゃない。生存本能、強すぎる。



 だから、もう泣き言は言うな。毎日一時間でも二時間でも長く働いて、毎月一万円でもいいから、借金を返せ。「火の鳥」の三木の台詞を? やめろ、泣き言は。あれも苦しんだ。程度と才覚の足りない、私も。



 最初にKさん、二万円。これはあんまり倫理にもとる。Nさんとこは、二人合わせて五万くらいか? 甘えてばかりでごめんなさい。Tさんには四十万。今になって解る。いろいろな意味が。たぶん正しく思い出せてる。Mちゃんに二十万。おれ、最後まで名前で呼んであげられなかった。なんだか気恥ずかしくて。あなたの無垢が、怖くって。
 あの酔っぱらいのひと、まだ生きてるかしら? 五万円。何の縁もないのに、ただ私に。ウェーブ通りのホフゴブリンだったか? 愉しい夜だったねえ。絶対今ごろ、死んでるんだろうけど。
 Oのとこは? たくさん迷惑かけたけど、借金はなかった。いろいろ大変みたいだ、想像するの、きみらに失礼だろうから、止めておく。それから、マー、全部でいくらだい? 五百万くらい? さすがにそれは無理だろうから、とにかく生きてみせますよ。何だって許してくれるひとだから、ちっちゃな命ふたつ、それだけ頼みます。死のうなんて、二度と絶対いけませんよ。
 最後に、父、母。役所のひとに頭下げてまで、保険証つくってくれた。必ず責務を、果たせるところまで果たして、謝りにいきます。確かに私は不出来な息子だったけれど、これ以上、絶対他人に迷惑かけません。



 だから、やっぱり泣き言はよせ。後悔するな。反省もするな。苦しいなどと、微塵も思うな。そいつがスイッチになる。全能なる創造主は、私に目的を与えず、ただ強靱で冷徹な機能をのみ、与え賜った。運命を全うしろ。精神科医だって、新興宗教の勧誘屋だって、私のこの虚栄の心を虜にできない。
 私はもっと、単調で退屈な機械、不死の鳥。何度でも、恥知らずに”自然に”甦ってみせるさ。今でもまだ、これ見てるひとがいるならば、それは、あなた、私の子だ。きみらのその、些細な好奇心を満たす為、私は生きている。重苦しければ出て行け。信用できぬなら去れ。おれの子どもたち! 見せてやる、人間のさらに退屈な様を!



 怠惰や弱さはひとの性。私は今これ見てる、すべてのひとの知性を信じてる。生活よりも、理想の刺激を愛した、甘えん坊の子どもたち。



 神様なんて、在るのか無いのか知らないが、在るならそれは、ひどく悪戯ずきで、残虐を好む化け物に違いない。先日、偶然に老犬を拾って、それだって、今の私の心には、よほど苦しいのに、さらなる試練を、いじわるを、私に与え賜る。

 やっぱり深夜に、私はいつもの坂道を下る。不謹慎だけど、明日は仕事も休みだし、深夜にひとり、安酒飲んで、好きな小説でも読みながら、ぐっすり眠ろうとする計画は、そんなに邪悪なものだろうか? お金は大事にしないといけないから、バーは止そう。ほうら、健全じゃないか。たったの五百円。なのに、何故こんなに後ろめたい! 強烈な罪悪感。
「だからね、そう思う時点で、飲酒に罪悪感を感じるってこと自体、異常なんですよ。少なくとも十年、本当は一生止める覚悟が決まるまで、断酒なんてするべきではありません。失敗の度に、そういうあなたの感覚は強くなっていきます。動機づけが必要です。仕切直しましょう。覚悟が決まったら、また来てください。手助けできると思います。それから、私の立場でこんなこと言うのは、不適切だとは思いますけれど、あなたはまだ、限界じゃないように見えます。言い方は悪いですけど、落ちるところまで、落ちないと、若い独身者のあなたには、無理です」
 なるほどよく言った。確かに私には、まだ私が正常で、目の前のあんた、薄ら禿のチビ、自ら望んで精神科医になった、あんたのほうが狂って見える。そういう気持ちのあるうちは、まだお呼びじゃないってことなんだろう。私は自分の問題の本質がなんであるか、ちゃんと理解している。そのことについて考えるとき、一滴の酒も必要としない。私は冷静に自分の弱点(いつかそれは、人格そのものになってしまったが)を理解している。解決の為に必要な努力も。知る力だけがあって、実行する能力がない。知に誠なく、行為、行為…。
 そんなこと考えながら、いつもの十字路を越えて、急な坂道を下っていると、いや、こういう時の私の思考は、もう少し複雑なのだけれど、今、あえて書かない。とにかく考え事しながら歩いていると、この頃慣れ始めた、あの独特の感じ、全身が神経そのもののようになって、音や匂い、その他あらゆる外界の現象に対して、敏感になり始めた。道端に子供用の学習教材? 積み木やカード、おもちゃの時計なんかの散らばっているのを見つけた。とんでもなく不吉な感じがする。身体が震えて、じわっと目頭が熱くなる。イヤホンを外す。こいつも依存だ。しばらくは音楽禁止。闇夜の静寂に、女の金切り声。悪趣味な神様のいたずら。冗談じゃない。私はたくさんの問題を抱えている。そいつを全部、明日にでも解決してみせなきゃならない。煩わしいことはごめんだ。もう手一杯なんだよ。だけど、声のほうに駆けだしていた。路地の途中のゴミ捨て場の前で、女が子供を蹴飛ばしていた。もの凄い怒鳴りかただった。
「何回言ったらわかるんだよ! ふざけんじゃねえ! おまえ、何回言ったら…」
 私はつとめて冷静に、状況を考えた。我が子を殺す母親だっている時代だ。こういうことだって、不思議じゃない世の中なんだろう。きちがい女め! 私は、それどころじゃあないんだよ。
 だけど女は、それこそヤクザ同士の喧嘩みたいに、足下の小さく丸まった身体を、殺意を込めて、本気で蹴り上げているように見えた。私は女の片腕と腰を掴んでいた。
「いや、なんていうか、通りすがりなんですけどね、子供を蹴ったりするな。おれは何にも知らない。だけど、子供を蹴ったりしないでくれ…」
 女の抵抗は、私のうっすらと、たぶん無意識に想像していたよりもずっと強く、そして俊敏だった。私は少しうろたえた。どうしよう? 育児ノイローゼ? だけど足下の子供、女の子だろうか? そんな、育児とか、そういう歳には見えない。小学三年生くらい? 目の前の女、きっと母親だろう、発狂してる。べつに怖くはない。考えろ、考えろと、ほんの数秒思考した後に、やむを得まい、と自然に腹をくくって、きちがい女を、その両腕ごと、無理矢理抱きしめて、子供と反対の方向に、路地を数歩、よろよろ歩いていた。手のひらの動きだけでは、制御できないと思ったからだ。女はもう叫ばなかった。ただ、嗚咽しながら、暴れ続けてはいた。私は心底困り果てた。なんだこれ? 冗談じゃない。どうしろってんだ? いたずらにもほどがある。私自身、膝をついて、その場に崩れ、倒れ込んでしまいたかった。だけど、ああ、まだちゃんと見てはいないけれど、子供、ひょっとして怪我してるかも知れない。どうする? 気合いを入れろ。何とかしろ。私こそ、叫びたかった。視界の隅で小さな光がちらちらと輝いていた。小動物の機敏に横切る気配を幾度も感じた。もう限界なんだ。勘弁してくれ。全部を一挙に解決する方法。女を殴り飛ばしてやろうか? 考えた途端、腕の中の女の首の、ぞっとするほどか細く、顔の小さいのを、腕の中に感じた。おれみたいな大男が、今、横着して殴り飛ばせば、こんな状態のこのひと、あっけなく倒れて、アスファルトに頭打って、死んでしまうかも知れない。そういう姿がありありと想像できた。考えろ、考えろ。
 私は小さく細いそのひとの身体を左腕に抱いて、引きずるように、子供の側に近づいて、空いた右手をその子に差し伸べた。
「立てるか? お母さん、今ちょっとイカれてるみたいだ。でももう、怖くない。全部終わったし、解決した。安心していい。痛いところがあるなら言え。大丈夫だ。もう怖いこと、なんにもない」
 女の子は立ち上がって、二三歩、後じさった。私と腕の中の母親を凝視している。その心理を想像するのは止そうと思った。病院で見てもらうべきか、彼女自身が判断すればいい。ああ! 苦しい! だけど女を引きずって、数歩進んで、無言の少女の手を握る。
「大丈夫だ。怖くない。全部終わったんだよ。痛いとこ、ないか? 苦しければ、これから医者に連れて行ってやる。痛いとこ、ないか?」
 少女は、無言。私の能力を超えている。困り果てた。どうすりゃいい? 警察。前に犬のとき、お世話になった交番へ? 一番無難な方法だ。まだ正常。頭、冴えてるじゃないか。だけど今度は相手、犬じゃない。たとえ今、狂っていようと、人間だ。自我の在処を、意思を確認しなきゃならない。腕の中の母親に、声をかける。
「すぐそばに、交番があります。そこへあなた方親子を連れて行こうと思う。不都合ありますか? 警察の面倒だけは、とか、そういう理由がありますか?」
 腕の中で私を見上げた、ヒステリーだかノイローゼだか知らないが、三十半ばくらいの女は、なんで私はそれまで気付かなかったんだろう? なかなか美しい女だった。泣き濡れて、目は血走ってはいるけれど、みなりも悪くないし、この辺りの住人だとすれば、金持ちであるのかも知れない。ますます困った。事情を尋ねることは出来ない。「近所の方ですか?」という質問は、「ご主人は?」や、「同居してる他のひとは?」と同じであり、そんな風に質問を始めれば「こういうことは頻繁に?」、「他にお子さんは?」という長い、彼女の苦痛を語る旅路になりかねない。こういう状態の女性の、そんな身の上話を聞くという、生活の蹂躙を、刹那主義的な救済の光を担うに私は相応しくない。夫がいるならそのもとへ。同居の父母でもいるなら、そのもとへ。それが分別というものだ。なのに、それを訊ねることができない。けれど私には、己の価値観と美意識とを、自然にたとえ一瞬でも好意を抱いたひとに押しつける悪癖があって、好意を抱けぬ者は無視する、愛おしい者には、瞬間に全霊を捧げる(依存?)という、ひどい悪癖があって、そんな自覚があるものだから、なのに、ああ、不思議だ。私はまだ良識人ぶって、このひとに、夫か父母かほんとに信頼できる友人か、誰か今この状況を一番によい方法で、解決できる相手がいるのなら、今すぐに、必ず正確にそのひとに電話するよう、彼女を説得した。

 子供の抱きしめ方がわからなかった。今にして思えば、ただ腰を屈めて、そっと握った手を引き寄せてやるだけでよかったのだろうが、その時には、子供はあんまり小さすぎて、果たして巨漢の私にどう抱いてやったらいいものか、考えがつかなかった。それで、仕方なしに、ずっと左手で母親の細い手首を握り、右手に少女の手を握り、気象学だか創造主だか、どちらのいたずらか知らないが、またしても雪の夜に、港のそばの高台の、暗がりの中に、ただじっと、月極駐車場のブロック塀に、己の鼻の当たるほどに近づいて、私は佇んでいた。
 どうやら女の子に大怪我の気配は無いようだった。また、この小さなレディの一見、茫然自失の瞳、真実には麻痺の、その瞳から、どうやら今夜の如き彼女の母の振る舞いは、一度や二度のことではなさそうだった。小さな手のひら握りしめて、ただじっと、彼女の母の携帯電話で連絡してくれた先の、相手の迎えを待つほかになかった。
 女は少し正気に戻り始めたようで「ごめんなさい。夫に電話をしました。今、湯河原だそうですから、この時間でも、二時間はかかると思います。家は、すぐそこですから、ええ、本当にご迷惑をおかけして…。できればお家に戻りたいんです。すごく寒い。この子のこと、いたわってあげなきゃいけません。暖かくして、少しでも母親らしく、この子の父親の迎えの来るまで、励ましてあげなきゃいけません。おかしいかしら? あら、大きいんですねえ? わたしまだ、おかしいですか? あなた心配なすって、薄気味悪く、思っているんでしょう? でも、大丈夫なんです。この子にも、あなたにも、本当に申し訳ないんですけど、平気なんです」
 そこまで言って女はまた泣き始めて、毒の抜けた、本当の女の哀れを誘う、惨めったらしい泣き方で、
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも私、大丈夫です、どうかおうちに戻らせてください」
 私は全くの独断で、これはまずいと思った。私の悪い癖だ。見ず知らずの女の、極限に近い精神の状態にまで、私の経験と価値観を押しつける。永久に誰も、他人を尊重できない。
「寒いなら、私の上着をあげます。二時間くらい、どうってことない。電話でこの場所を伝えたんでしょう? 待ちましょう。上着はお子さんにやることにして、あなたは大人なんだから、なに、わたしは体温、高いタチなんです。二時間ばかり、我慢してください」
 彼女は大いに泣き出した。狂乱。私には彼女に語るべき言葉も無ければ、励ましをする資格もない。ただ、少なくとも、この瞬間に、自己主張をする傲慢だけは、避けうるだけの良識(?)を、強さを持っていた。苦しい、のは、己の中で飼い慣らせ。おれは男だ。継続の努力、不屈の闘志、無くとも僅かにこの瞬間のみは、耐えねばならん。なぜなら、なぜなら? アーニー、いんや、キタカタ先生。おれは男だからです。生活の欲も、食欲も性欲も、失ったというより、私には全然最初からなかったようです。私はかたわの雄で、今はただ一分でも長く生き延びて、一円でも多く借金を返す、そんな目的の為に生きている、ほんとに間抜けな浮浪者に過ぎません。今は? いや、永久にそうでしょう。だけどこの瞬間、目の前の母娘を守ってやりたい! 二時間だけでもいい。私に出来ることは? 己を吐露して胸襟開かず(人々は私が”化ける”と言った。私の本性の醜く退屈で、ひとによっては衝撃的なのは、魅力とはいえまい。まさに私は”化ける”のだ。怪物なんだよ。ただ、悪意は微塵もない)目の前のひとを困らせずに、だけど全身全霊でもって、思いやってあげる、最良の手段は?

 そう、まさに運命というやつは、創造主とやらのいたずらは、当然人知を超えて残酷だ。私はこの母娘、哀れに潤んだ四つの黒い瞳を、雪の舞う路地に予感した、その時以来、暗中模索、ただがむしゃらに抱きしめているほかに、方法などなかったわけだけれど、なあに、最初から全部、彼らにはお見通しだったのだ。私のジーンズの左の尻ポケットには、サローヤンの「ワン・デイ・イン・ニューヨーク」があった。私は予感の最初から、母娘に、ロージーとローラを感じていた。彼女にかける言葉はない。私にできることは? 嗤われたって、てんでかまわない。今自分にできる努力を、全力でもってやることこそ、誠意、善なのだ。
「ええと、時間つぶしにね、この文庫をあげます。ひょっとして、今のあなたに相応しくない、退屈なものかも知れませんけど、物語の真ん中当たりで、作家は男ですから、やっぱりあなたの気に食わないかも知れないけれど、母親と娘の関係の話があります。本当は男の為の、父親の為の物語です。でも、ねえ、ほんの少し、この人の人間観察は、本物ですから。私は信用できなくったって、この本は信用してください。結末はね、内緒。たとえあなたに理解できなくたって、知ることできなくったって、感じることはできますよ」

 長い、長い時間。私はくたびれた。しゃがみ込んで、すっぽり腕の中に、まだ時折思い出したようにすすり泣きをする痩せた女を抱いて、その先に延ばした両手で、小さな女の子のもっと小さな肩を掴んで、ただじっと待つほかになかった。三人とも沈黙しきっていた。私は女のすすり泣きのひどくなった時に、一度だけ、やはり禁忌を犯して、声をかけた。
「あなたはね、自分の娘の前でだけ、強ければいいんです。本当は世の中の誰よりも弱い。そんなのみんなわかっています。子供の前でだけ、強くなさい。虚勢でかまわない。本当は泣き虫だって、全然かまわない。娘さんの前だけ、でいいんです…」

 いつか曉に、まだ雪は止まなかったけれど、彼女の夫が、臙脂色のダイムラーで、互いにぼろぼろ傷ついた、彼女と愛娘とを迎えに、やってきた。私はできるだけ簡単に、事情を説明した。通りすがりであること。警察に行くよりは、あなたに連絡することを彼女が望んだこと。家に帰りたがったが、私が見知らぬひとの家に上がり込むわけにはいかない以上、二人っきりにするのはまだ不安だったので、寒い中、申し訳ないが、こうして我慢してもらったこと。お子さんの怪我の様子は、私には判断できないけれど、時間に余裕あれば、あなたの意思で、医者に診せてほしい。子供は特別なものです。大人どうしのわだかまりなんて捨てて、真剣に、命懸けで、考えてやってください。もちろん、私には、全然、さっぱり、ですけど。感覚の問題ですよ。あなたと、その奥さんよりも、ええ、こういう私の、無神経なもの言いよりも、この子の安否のほうが、遙かに重要だって、そんな気がするもので。
 彼の幾つかの質問は、全然私の心を動かさなかった。だから私は一つも答えなかった。「あの、せめてお名前だけでも…」
「名前? べつに何にもしちゃいないよ。殴ったり蹴ったりできないように、彼女と娘さんを掴まえていた。寒いだろうと思って、そばにいた。指一本触れていないとは言えないけれど、べつに何にもしちゃいない。名前? 名前だって?」
 私は軽やかに、スキップ踏むみたいに、ほんとに軽やかに、一歩、坂道を下った。それからぺっと道路に唾を吐いた。
「それじゃ。くれぐれも、暖かく」
 振り返らなかった。粉雪舞う、いつもの坂道を下る。信じられないくらい、軽やかに。元気だしなよ、女たち。レディとレディ。私は何にも知らない。あなたたちがとっても魅力的な生き物だってことの他に、何も知りたいとは思わない。くたばってしまえ! スキップ。おれにはまだ翼がある。自由っていうんだ。スキップ。パンでも買おう。バターも。玉葱とコンソメのスープも作ろう。スキップ!



 ある日の夕方に、私は通い慣れた宇田川町のドトールで、ブレンドMサイズをすすりながら、ゲーテのウェルテルを読んでいた。十五分早く、渋谷に着く。仕事の前に、コーヒーを一杯やる。最近決めたやり方だ。お酒よりは薬。薬よりはカフェイン。まあ私にとっては、金額さえ違わなければ、何でもいいんだけれど。仕事の前に自分を整えておくことは、絶対に必要なのだ。気持を落ち着ける、というのではない。力強く、がちゃんと大きなレバーを倒して、軽薄で陽気な、見かけのわりに親しみやすくて、ちょっと変な兄さん、そういう自分に切り替える。努力はいらない。無理して装っているわけではないんだから。好きで、自然と毎日やっていることだ。ただ、準備はいる。

 私はいつだって店に人が足りないときは、本部の人間にこう頼む。
「いや、仕事なんて出来なくたっていいんですよ。女の子をお願いします! 派遣でもヘルプでも、なんでもいいから、若い女の子で!」
 私は社員で店長のSさんとよく話す。
「なにしろうちは、ダンディすぎんですよ。週末にこの箱で、たったの二十四席のこの箱で、十二時間で三百人回そうってのに、店員全部、メンズ。これはね、お客も働く方も、相当苦痛ですよ」
「そうそう。俺もマジで限界。潤いって、必要だよねえ。でもさあ、女の子、誰も働いてくれねえんだもん! この前派遣で来てくれた子に聞いたんだよ。なんで全国でも特にうちだけ、女の子、続かないのか。時給千二百円でも、考えものだって、言ってたね。やっぱ更衣室、無いのがいけないのかなあ…」
 私たちは笑い合う。私はこの人よりずっと昔からこの店にいる。店長は四回替わった。所帯持ちの社員で、ひと月以上続いたひとは、一人もいなかった。実はSさんにもいろいろ苦労はあって、先日またこの店は売られた。店も人も、全部一緒くたに。私なんかは全然かまわないことだけれど、Sさんは正式な社員だし、三十四歳で、三歳と六歳の娘さんがいて、千葉のマンションのローンも、まだ山ほど残っている。しかもSさんは最初から、この店で数字出して、なるだけ早く買い手を見つける、そういう役割で、やってきた人なのだ。数字は出した。買い手も見つかった。やっとお役ご免、次こそ自分に相応しい、安住の地へ、会社は導いてくれるだろうと、そういう希望でいっぱいだったのだ。それが金曜に売却の話が持ち上がったと同時に決まり、三日後の月曜に、出向なんて生易しいものではなく、さあ、お前は今からうちの社員じゃない。退職だ。買い取り先はS県一のパチンコ屋。今日からお前、そこの社員だ。
 そんな非常識、あるだろうか? Sさんは気さくで諧謔を知っていて、仕事もできるし、キャリアもある。なにしろR系の社員、ようするにガストの店長を何年もやっていた、と言えば読者にもわかってもらえるだろうか? あそこの人使いの荒いのは、飲食業界長い連中なら誰でも知っている。注文すれば料理は三分で出てくる。飲み物なら、一分だ。おまけに二十四時間営業で、なのに社員は一店舗に一人。そういう環境で、何年も鍛えられてきた人だ。今のうちの従業員も、古いのも新しいのも含めて、みんな彼を尊敬しているし、慕っている。私も彼が大好きだ。私みたいなくそったれの酔っぱらいを優しく使ってくれるのも、全部この人の人柄に依る。
「じゃ、今週末はまたUさんに頼みましょうよ。あの人のE店、従業員の三分の二は、女の子だって」
「なっ! 俺だってこんなダンディ・ハウスじゃなきゃ、店ごと売られたって全然構わないんだって。このセンター街に骨埋めてやるっつうの。ああ、でもUさん、おっかないだろう? あの人本部でも有名なんだよ。前の前の店長、Yさん、辞めさせたの、あの人だよ? あ、俊くんは知ってるか」
「いいじゃないですか。あの人、今べつに暇でしょう? E店の店長べつに居て、監督だか何だか、そんなのしてんでしょう? おれ二三度組んで仕事したことあるけど、全然いやな人じゃないですよ。ね、おれ電話しますよ。今週、あの人付きだけど、Eから誰か、素敵な若い女の子、お願いしましょうよ。潤いって、大事じゃない?」

 私はドトールの三つ並んだ狭いボックス席の、あろうことか真ん中に座っている。他に席がなかった。右手の席には女が二人。もの凄い勢いで、こんど派遣されることになった銀行について話している。ずっと証券畑だったのに、よりによって、R銀行、でもね、これで心おきなく、株ができる。父親のコネクションだとか、ドルの取引についてだとか、そんな話を熱心にしていた。強そうな女たちだった。自信に満ちて、金も唸るほどあって。左手はいかにも渋谷らしい、派手で下品で意味不明、そんな女の子二人。右手の組みより、五つくらい若そうだった。私が席に着いた瞬間から、突然声を落として、静かに振る舞っている(読者は知っているだろうか? とにかく狭いのだ。両隣の女二人と私の肩の隙間は五センチ足らずしかない。それが渋谷、宇田川町)。私はまだゲーテを読んでいた。不思議なことに、右手のキャリア・ガールたち、一生私みたいなクソたれなんて、歯牙にもかけない、すごく素敵な女の子たちに、何かが欠けている。何だろう? 暖房の効きすぎた店内で、両側をぎゅっと若い女に挟まれて、身動きならない私は、ふと考える。品性、かね。日本人、かも知れない。いや、彼女らの素敵なことには違いないんだけれど。その点、左手の若い組みは、私の好みに合った。二人とも(十八か、そのくらいだろうか?)、私が震える手でカップを掴む度に、ちょいと目線を本から上げて、店の時計を見上げる度に、緊張を顕わにして、押し黙り、手元の鞄を掻き抱き、ちらと私の表情を盗む。田舎者の純情、本能というものは、こうでなければねえ。私はウェルテルの物語の、あの青春炸裂、猛烈な書簡体の物語の、お気に入りの一節にたどり着く。
「九月三日
 ぼくだけがロッテをこんなにも切実に心から愛していて、ロッテ以外のものを何も識らず、理解せず、所有してもいないのに、どうしてぼく以外の人間がロッテを愛し”うる”か、愛する”権利がある”か、ぼくには時々これがのみこめなくなる」
 私は物語の結末を知っている。読者も知っているだろう? ウェルテルはアルベルトに借りた拳銃の、いや、ロッテの手ずから埃の払った、聖なる銃弾の一撃で、己の頭蓋を貫いて死ぬ。私はその本を閉じる。コーヒーを飲み干す。煙草の最後の一服を終える。立ち上がる。本当に狭い客席だ。左手で少女のふたり、びくりと身を奮わせるのを感じる。一声かけてあげようかと思ったけれど、止めた。どちらの組みも、まあ結局、私とは全然関係がない。私はカップと灰皿をカウンターに返して、水を一杯もらう。まだ四肢の震えが止まない。少し頭が混乱していて、調整は充分とはいえない。アルコールはだめだ。そう決めた。振り返って店の時計を見て、時間を計算する。医者からもらった薬を、三種類ほど飲む。酒よりはマシ。なあに、二時間も汗を流して働けば、ちゃんと皆の知ってるおれになる。それにしても、品性…、生来のものか、環境によるものか…。芸術とは関係などあろうはずがないけれど、他人を判断するのに、好悪の条件に、品性…。私は働きに出かける。
posted by kawai toshio at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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