2005年03月26日

詭弁

 Uさんに頼んだヘルプの女の子は、抜群だった。Mちゃんといった。薄茶色のカラー・コンタクトレンズ。ルイ・ヴィトンのハンド・バッグ。女子大生だって。少しチビだけど、きれいな髪をしていて、おしゃれで、きゃあきゃあうるさくって。E店だろ? あんな山だらけの田舎にただ一軒のショッピングセンターの中で、こんな子が? 私とSさんはさんざんUさんを罵った。
「いや、E市もね、今じゃ立派なモンですよ。そりゃあ、都会じゃないけどね」
 それから私とSさんは、一日中さんざんはしゃいで、張り切って、
「ねえ、なんか違うお店みたいじゃない?」
「うん。すっげー、イカス。Sさん、こんな素敵な店なら、おれ全然まだ何年だって、続けたってかまわないぜ」
「何言ってんのさ。俺だってな、店ごと売られたってかまわねえっつうの!」
 馬鹿な大人が二人。私たちは仕事中、一日中、笑い合った。
「ねえ、Mちゃんだっけ? その目、コンタクトレンズ? すごくきれい! 洒落てんなあ。流行ってんの? ねえ、この店、どう? また応援に来てくれる?」
「はい! ここ時給もいいし、忙しいですけど、なんでそんな女の子続かないのか、私、家が近所だったら、きっと普通にここで働いてますよ」
「聞いたかよ、Sさん! 感動ってこういうもんだぜ!」
「でも、更衣室ないしさあ…。むっさいのばっかでしょ。忙しいし。油臭いし。おまけに、超ダンディ」
「今日はちげーよ。素敵なお店。ねえ、Mちゃん、きっとまた来てね? こう、なんつうかね、Sさん?」
「潤いだな。Uさん、来週もお願いしますよ、ほんと」
「何だか二人ともノリがいいねえ。まかせといて。つうかうち、ほとんど女の子だしね。ランチ・タイムなんて、厨房まで全部女の子だよ」
「E店は有名なんですよ? 可愛い女の子ばっかりだって。学校のミスコンで二位だった子とか…」
「マジかよ! Sさん、この宇田川はファックすぎる。おれE店に移籍していい?」
「俺のが先だっつうの!」

 私はそれから幾度もMちゃんと話した。彼女も熱心にたくさんの空虚な質問をした。私はずっと笑っていた。二度、便所で吐いた。

 十二時少し前に、Sさんと二人、店を閉める。シャッターを下ろして鍵をかけた瞬間、レバーのがちゃりと戻る音が聞こえる。自然、自然か。
「ほんとに大丈夫? 来週も週六で入れちゃったけど、いけそう? つうか今日、帰れる? まだ電車ある?」
「ええ…」
 電車など、ない。表参道のバーへ。お金は無駄にしちゃいけないから、ええと一杯六百円だとして、まあ最悪十杯、そのくらいにしておこう。でないと働いたぶん、みんな無駄になってしまう。私はだいたい一日働くと、一万二三千円になる。半分は借金の返済。残りの半分で生活する。始発で帰ろうか、それとも朝から出勤しようか、そんなこと考えながら、夜の渋谷を歩く。昔は苦手だったこの街が、年取って、最近、気に入りだした。無邪気な子供ばかりの街だから、緊張せずに済むせいかもしれない。少なくとも、中華街よりはマシだ。あの街は、私のもっとも多感な青春の六年か七年をむさぼり、実際過ごした年月の五倍は年を取らせた。なのに不思議なことだが、私はやっぱり永遠に横浜の男なのだ。神奈川県民には特別な臭いでもあるんだろうか? 私に実感できるのは、たとえば渋谷、恵比寿、六本木、そういう界隈にいる人たちの服装だ。女の子はいい。なにしろみんな私の理解を超えていて、ただぽかんと口開けて、間抜け面をさらし、指をくわえて見ている、そのほかに、私には何か考えたり、何かをする余地なんて、どこにもないんだから。だけど、男たちは? 洒落ていて、スタイルが良くて、何が自分にお似合いか、ちゃんと理解したうえで、見事にビシッときめている。誰も彼も、ちゃあんと様になっている。ただ、少し、華やか過ぎるんだな。私の好みと少し違う、とまあ、その程度の話なんだけれども。

 ゲーテ、ルソー、サルトル、カミュ。カミュ? 私は自然に「異邦人」を思い出して、深夜にもやっている古本屋で、カミュとゲーテの文庫をいくつか買った。それからモームの長編。それらをバーに持ち込んで、数ヶ月ぶりに訪れたそのバーのカウンターの隅で、じっと読書を始めた。私のほかに賑やかなひと組の客だけがいた。男が三人、女が二人。どこかの飲み屋の女と、男は極道者に見えた。私は全然気にならなかった。何しろ途中ブランクがあったとはいえ、十五で始めたバー通い。十三年経った。私はちっとも変わっていない。
「お久しぶりです。すみません、なんか賑やかで。こんな時間には珍しいことなんですけど…」
「いや、全然。悪いけど電車乗るの、忘れちゃってさ。営業ってまだ五時まで?」
「はい。いや、片付けして帰るの、九時頃ですから、いつも通り、ゆっくりしていってください」
「そう。悪いけど、頼むよ。ええと、金は一万円しかないから、それ超えて飲みそうだったら、止めてね。もう、前みたいに、電話して、誰か呼ぶってわけにもいかないもんでさ。電話も持っていない」
「はい」
 五人組のうち、ひとり、坊主頭に眼鏡の一番年嵩らしい男が、幾度も私のそばにきて、声をかける。べつに不快でなかったから、適当に彼の質問に答えて、あしらっておいた。どうやら極道者に見えたが、学習塾の経営者であるらしい。私は少し興味を持った。ただ彼はひどく酔っているようで、品性の欠片もなく、およそ私には想像もつかないくらい、下品で肉体的な話ばかりをする。私の興味を持ったのは、学習塾をやるくらいだから、きっと学卒だろう、何が専門かわからないけれど、万が一にも、ひょっとして、あの”書き方”というやつを、知っているかも知れないと、そういうことだった。けれど彼は飲み過ぎだった。ひどく酔っていた。
「案外たのしいものですよ。こう、十三歳くらいの女の子をね、いじくるの、いえ、いやらしい意味じゃないんです。犯罪とか、そういうのではないんです。なんていうかな、頭の中をね、こう…」
 恐ろしく不愉快だった。この男には知性ってものがないんだろうか? 咄嗟に殴り倒してやろうかと思ったけれど、それが周囲から異常に思われることも、私はちゃんとわかっている。彼をたしなめて、自分の席に帰す。
「悪い、おかわり、もらっていい? あとね、ちょっと気分が悪い。二階、使っていいかな? ちょっと一人でいたい」
「ごめんなさい、ほんと。珍しいことなんです…、ウオトカ・トニック。トニック、少なめで?」
「うん。ありがとう」
 私はそのバーの二階席のソファがどうしても好きになれなかった。深く、柔らかなソファ。窓辺にもたれて立って、ああ、星はない。小さな窓だから、月も見えない。ただ夜の気配と、冷たい空気、薄赤い照明だけがある。カミュ。アルジェ、アフリカ。草原。太陽とそれに焼かれる砂。私は何も知らない。ただ空想の自由だけがある。パリ、百年前のパリ。百年前のカリフォルニア、アルメニア語の小説。ゲーテのいかにもドイツらしい、憂悶。ホメロス。空想こそが私を回転させる最初の一撃。現世と私の人間を繋ぐ、矛盾した特別な方法。
 そのうちに、少し気分が良くなってきた。昔、あの人は言ったものだ。
「ねえ、きっと向いてないのよ。この国が。こういう環境全部。アメリカ、行かない? サンディエゴ。きっと若い”お爺さん”、あなたも気に入ると思うわ。まだ私の知り合い、大勢あそこに残っているし、お金も二人で二三年暮らすくらい、全然平気よ。ねえ、アメリカにしましょう?」
 私は拒絶した。
「そんならきみは、アメリカへ。おれは、そうだな…、北海道がいい。昔ウトロにいたことがあるんだよ。子供の頃、ひとりで。そうしよう、きみはアメリカ。おれは北海道だ…」
 いつの間にか、少し眠ったらしい。



 昇りきらない太陽が、額の奥でがんがん唸る。目が痛い。さあ、確認しろ。オムニ・ゴッドのジーンズ。革靴はジョンストン・マーフィー。もらい物のシャツに、安物の上着。眩しすぎて、目が痛いなら、サングラスもある。サルバトーレ・フェラガモ。顔はむくんでいないが、身体のバランスが少し悪い。軽すぎる。真っ直ぐ歩けない。どこかでコーヒーを飲もう。それから私の一日を始める。まずは歩くことだ。はじめはゆっくり、だんだんと速度を上げて歩くことだ。そしてコーヒー屋を見つける。三十分ほど考え事をしよう。仕事について、それから彼の書き方について。歩きながら考えることもできる。

 当面、今の仕事を辞めるわけにはいかない。が、この頃すこし身体がきつい。いい加減、肉体労働は無理なのかも知れない。いや、無理ではないが、別のやり方を想像してみるのも、無駄とは言えまい。しかし私にどんな仕事が出来るっていうんだろう。募集はある。私も募集広告の半分くらいは、条件を満たしている。たとえば、そう、たとえば、今手の中にある無料求人誌。こんな募集広告をデザインする仕事を、ほんの短い期間だけ、やったことがある。職場の人は皆親切で、なんにも知らない私にいろいろ教えてくれた。営業の人が仕事を持ってくる。一枚の紙に、大まかな原案、クライアントの希望とやらが書いてある。わからないことがあれば隣の席の人に聞けばいい。私は自分の知っている求人広告をぼんやりと思いだし、まあたしかこんな感じだったよな、と適当に文字の大きさを揃え、ほら、私だって昔はこんな文字だけ書くような横着はせず、きちんとHTMLやらスタイルシートやらを駆使して、文字や行間の一ピクセルにまで細心の注意を払って、自分のページを作っていたものなのだ。大体の感じくらいわかる。クライアントご希望のロゴマークを添え、文面に関して具体的な指示が無かったので、やはり過去に見た求人広告の文面がどんなものだったか思い返し、しかしそれは大抵「楽しい仲間が待ってます! 誰だって最初はみんな未経験! 明るくて、やる気のあるあなたのガッツを待ってます!」とかそういう白痴じみた奇声に似ていて、どんなに条件がよくとも、私はそんなところで働きたいとは微塵も思わなかった。が、なにぶんそういう類の文句はこの手の求人募集広告というやつには付きものだし、案外クライアントとやらは、営業の人の持ってきてくれた紙っぺらには書いてなくとも、そういう白痴じみた奇声を好む若者に働いてもらいたいのかもしれない。そう思って、少なくとも私の知識の範囲内で、一般的だと思われる発狂した文面でひとつと(しかしこれにも少し工夫は必要で、こういう広告に惹かれるような人は、たぶん字面の読みにくい点などが僅かにでもあれば、意味を誤解しかねないし、あるいはその内容を全然理解できない可能性もあるだろうと考慮して、濁点の位置などには相当気をつかった)、もうひとつ、いわゆる淡々としていて、それでいて怪しくない、短く事務的な中にも多少の知性を感じさせる、ごく普通の言葉で書いたもの(私は大抵こういう文面の募集に応募し、そして働いてきた)の二つを作って、その部屋の責任者らしい人のところへ持って行った。
「あの、いちおう二つ作ってみたんですけど、何しろこういうの始めてでして。無知なもんで」
「はい。いや、どっちも全然OKですよ。憶え早いですねえ。この二つ、そのままクライアントに送っちゃいましょう。じゃあ次はこれ、イラスト付きなんだけど、絵は描けます?」
「いや、全然。描けといわれりゃ描きますけど、たぶんすっごい変ですよ」
「じゃあね、この、ほら共有フォルダに、うちのデザイナーの描いたのと、あとまあ、イラスト集、みたいなものですけど、ありますから、適当に選んで、入れてみてください」 そんなふうにして、私はその日、二十くらいの広告を作った。ただ座って、コンピューターの前にいて、クライアントと応募者の心理を想像し、常に二種類以上のものを上司に確認してもらいながら。
「なんだあ、未経験だなんて言って、即戦力じゃないですか。まあフリーター長いみたいですし、いろんな仕事もしてらっしゃったみたいだから、きっと、要領いいんでしょうね? うちは長期でも大歓迎ですから。よかったら、考えてみてください」
 こんなふうに一日ぼんやり座っていて、みんなに親切に仲良くしてもらって、適当にお喋りして、時給は千四百円だった。私は何か違和感を覚えたし、失礼を承知で言わせてもらえば、少なくとも私にとって、こんなのは労働とはいえない。労働というのは、全力で笑い、怒鳴り散らし、かけずり回って、終いにはくたびれ果てて、何もかも投げ出してどうでもいい気分になり、そして僅かばかりの金をもらい、その金で酒を飲んだり、恋人にネックレスを贈ったり、娘がいるならドレスを買ってやって、妻には花束を、そうして一日が終わり、また次の一日がやってくるかも知れない、そういうものだ。べつに信念なんかはないけれど、たぶん長いこと、私に限っていえば、そんなふうにしか労働ってものをしてこなかったし、そのやり方が今や私の一部になってしまっているのだ。だから何かを非難しようなんて気分は毛頭ない。ただ私には、走り回って大汗かいて、罵り、笑い、抱きしめ、熱狂、狂騒、単純に精神と肉体を酷使する作業。そして異様な程の疲労と虚無。そんなものこそが、働くってことなのだ。生きるために働く必要があるなら、働くことは生きることだ。まあ、即断する必要はない。仕事について考える時間は、まだたくさんあるんだから。

 さて、書くことについて。このところ小説からずいぶん離れていた。労働とその為の準備、或いはトリートメントに完全に忙殺されていた。人々が奇妙に私に対して親切であったせいもあるかも知れない。私はそういう状態で、小説について考えたりしないし、絶対に書かない。私は”調整”に注力する。他のことは考えない。”調整”さえ済めば、あとは素早く軽やかに、頭脳と肉体が反応して、生活、書くこと(私にはその二種類のスイッチしかない)どちらについても結果を出してくれる。私のスイッチは労働と生活の側に押されたままだった。今は、永久にそのままでも構わないと思える。永久にOFFの側に…、ああ、確かに、それでも構わないと思える。



 携帯電話から知り合いすべての番号を消し、ヒントになりうるようなメモを捨ててから、どのくらい経っただろう。三人だけ残しておいたのは、彼らが全員男性であり、小説について知識や意見を持った人だったからだ。彼らの言葉を必要とするときが来るかもしれない。そして三人とも私の電話に出なかった。ずいぶん遅れて、彼らのぶんも消した。未練、だったのかも知れない。とにかくあの日、あの時以来、私の名前を知らない者は完全に、そして永遠に私に無関心であり、私の名前を知る者は、やはり同じように無関心であるか、嫌悪するか、軽蔑する、それは妄想でなく、また想像でなく、私は諦めたわけですらなかった。事実として受け入れる必要があった。もしも私に不幸なんてものがあったとすれば、私は自身があの時、あの瞬間まで、決してひとりで生きてきたわけではないと、知っていたことだろう。私は名前のあるすべての命の好意と親切、努力の為に、その瞬間まで、生きてこられた。その事実を知っている。にも関わらず、あの時より先、永遠に誰とも会話せず、目を合わせず、真実を語らず、救いを求めず、完全に独立したひとつの死骸になるという、それも事実と状況が、他に私に方法を残さなかった為に、それを受け入れなければならなかった。最後に私が人間として話したのは、いつだったろう? 誰だった? 
「それって、本当なのかなあ。全部あなたの勘違い、思い過ごしなんじゃない?」
 知らないわけではないだろう? 私は誰にも怒りや憎しみを顕わにしたことがない。そういうフリをすることが最善である場合に、演技はしてきた。けれど私は絶対に誰も憎まない。怒らない。軽蔑しない。すべての命を愛そうと常に意識してきたし、だからこそ、本当は誰も愛していない。私は怒鳴ったり、誰かを罵ったり、絶対にそういうことはしない。私がそうするときは、憎しみと嫌悪があまりに大きすぎて、どうしても我慢がならず、相手を殺し、その縁者のすべてを殺し、憎悪に焼かれたその己の心をきっと許せず、だから発狂しても構わないと、それほどの覚悟が出来たときだ。人を傷つけるのは、それくらい苦しいものだ。勇気がいる。屍の上に立って尚、己の幸福に生きるのには、努力がいる。彼彼女、ひとり残らず、それを選んだ。私は今でもただ皆に申し訳なかったと、そう思っている。



 春の嵐、強い雨。私はいつものあのスクランブル交差点に立って、”調整”の最後の仕上げに取りかかろうとしていた。そこからの五分間が一番重要なのだ。身体が軽すぎた。歩く速度が自分の想定していたものと全然違う。足だけがひどくゆっくり、なんとか前後しているが、両腕はだらりと垂れ下がったまま、動かない。首もやはり垂れたまま立とうとしない。傘がない。寒くはないが、サングラスが濡れて、目の中まで滴で濡れて、視界が悪い。動け、動けと、いくら激しく心の中で吠えても、いつか私は完全に歩くことを止めてしまっていた。雨。どしゃ降りといってよかった。冷たくない。風も強いが生暖かくて、凍えることはない。今、自分は人々の目に奇異に映るだろうか? 幸いここには大勢人間がいる。変人奇人、狂人の類も珍しくない。私は特別目立ちはしないだろう。まだ数分猶予がある。ここはどこだ? 道玄坂からセンター街へ、細い路地だ。通い慣れた道。私以外の誰もが傘をさしている。あと何分ある? 時計も電話も、携帯することをひと月くらい前に止めてしまっていた。どこかに、時計は? 視界が悪い。サングラスを外そう。少しはマシになる。プッシャー? 「何がいる? 何したい? 何必要?」こいつの名前、なんだっけ? 思い出せない。歯を食いしばって、全身に力を込めて…、だけどやり方が思い出せなかった。サングラスを外せ! 頭を小さく振るだけでいい。足下に落ちたそいつを踏みつぶして、粉々にしろ。そして時計を探す。時間がない。トリートメント、トリートメント。
 サングラスは落ちた。目の前の大きなガラス窓の中に自分が居る。半透明に透けていた。髪が肩より下まで伸びている。ぞっとする姿だった。なぜ透けている? 亡霊? 半日働いた後に、半日”調整”する。大量の薬といくらかのアルコール、時間、食事、睡眠。今日も完璧なはずだった。なぜうまくいかなかった? 潰瘍の薬、整腸剤、利尿剤、トランキライザー。時間の調節も完璧だった。酔ってはいない。薬の毒もうまく抜けている。いつもの自分のやり方。今日に限って、なぜ? スイッチを入れろ! レバーを下ろせ! まだ間に合う。
「あ、俊さん!」
 この子、誰だっけ? Aさん? そうだ。うちの店の最年少。十九歳。ひと月前からバイトを始めた。劇団をやってるって言ってた。何かそういう学校に通っているんだとも。女優志望。私の全然知らない世界。だけど、こんなにチビで、顔だってべつにこれといって目を見張るようなところ、あるわけじゃあないのに、この子、本当にうまくいくんだろうか? 肌はきれいだ。若さのせいか。声、話し方の小気味いいのは、そういう訓練のせいかも知れない。
 笑え! 目の前に小さな女の子がいる。私の名前を知っている。だから、笑え。私は誰だ? 誰よりも陽気で脳天気、いい加減で少し頭のイカれた兄貴。笑え! 軽口を叩くんだ。呆れられろ。笑って、笑われて。今それができなきゃ、本当に終わってしまう。笑うんだ。歩け。動け。嘘でもいい。スイッチを入れろ!

 あの暗い予感を覚えた。動けなかった。笑えなかった。たぶん私は泣いていた。鼻水だって垂らしていただろう。だとすれば、雨に救われた。私は彼女に申し訳ないと思った。誰だって、大人のだらしないところは見たくない。
「すまない。動けないんだ。調整がうまくやれなかった。今日もう働けない。Sさんに謝りにいかなきゃならない。Aさん、今日出勤? ごめんね、迷惑ばっかり」
「本当に具合悪そうに見える。俊さん! ねえ、今日は休んだって大丈夫ですよ。本部の人だっているし、うん、わたし店長さんに言ってくるから。お店目の前じゃないですか、ちょっと待っててね。すぐ戻ってくるから」
 おれ、もういやだよ。こんなふうに生きてるの。自己憐憫なんかじゃないんだ。本当に、心底いやなんだ。
 立ってることもできなかった。その場で尻餅ついて、正面のガラス窓の中で、どんどん自分の薄気味悪い姿が薄くなっていく。ここに自分はいない。書くことについて、ほんの少し思い出したせいだろうか? うまくいかなかった理由はなんだ?

 吐いた。食ったものも、飲んだ薬も、全部吐き出した。サングラスを拾う。深く掛けると滑稽に見えるデザインだ。浅く、鼻骨の下のほうに押しつけるように。こういう時の私の目は誰にだって見られたくない。
「Sさん、ごめん。どうも体調がよくない。今日は四人でも何とかなりそうじゃない? 二度とやらないよ。だから今日だけ、休ませて」
「大丈夫。だから来るべき週末の為に、ね。今日は帰ってください。ヤバそうだもん。気にしないでいいから。うん。今日は何とかなるって」
 私は笑い方を思い出しかけていた。笑おう。ごめんなさいって、言おう。怖がらせてはいけない。気味悪がられたくない。今できることは、笑うことだ。

 私は笑った、と思う。
 気絶していた。雨脚は弱まっていた。ずぶ濡れだったが、寒くはなかった。目の前に制服姿のAさんがいて、私は彼女の為にもう一度笑おうとした。サングラスを外す。
「ごめんね。忙しいかい?」
 彼女は何も答えなかった。私は片目の視力を失いかけていて、彼女は私のまだしも見えるほうの目を凝視していた。他人の好奇心。若いあなたの好奇の心を満たすべき何かが、この目の中にあるか? 狂人の目だ。それが面白いか? 役者を目指すくらいだから、そういう心が、感覚が、少し鋭敏なのかもしれない。
「気味悪いか? 何が見える? 面白いこと、何かあるか?」
 彼女は何も答えなかった。私のスイッチは、やはりまだ、生活と労働のその位置になかった。大失敗。もうこの場所に居られない。
「本当は、何してるひとなんですか?」
 彼女は微笑んでいた。なるほど、女優は無理かもしれない。だけどやっぱり女の子だな。特別な光り方をしていた。永遠に私と交錯することなど無いにも関わらず。
 私は今度こそ笑い方を思い出していた。確かに笑った。
「休憩かい? こんな天気だ。店の中で賄いでも食ってなよ。だけどまだ、あと数分、時間があるなら、手をくれないかな。まじないみたいなものなんだ。そこに、おれの他にも人がいる。怖いならいい。無理はしないでくれ。親切もいらない。本当に興味と好奇があるなら、手に触れさせて。少し、休みたいんだ。来るべき、週末の為にね」

 私は小さな彼女の手を握り、混濁した意識の中で、精一杯に会話を試みた。
「×××ジュンに似てるっていわれません?」
「それ、どういう意味? 褒めてる? 励ましてる? 嘲ってる? テレビの人? おれテレビ、持ってないから、わかんないよ」
「いちおう、褒めてる系、ですね。言われません?」
「言われたこと、あるかも知れない。Nの店で、Hの店で。どの街の、どんなバーでも、バーだからこそ、バーでだけ、おれは案外人気者なんだ」
「なんで?」
「わかんない。礼儀正しくて、揉め事を起こさず、金は必ず払うからだろう」
「いいお客さんってこと?」
「だねえ。おまけにおれはバーを愛してる。きっときみが家族や恋人、憧れの誰か、想うくらいに、バーを愛してる。そこで知ることのできる題材を愛してる」
「本当は、何してるひとなんですか?」
 彼女は数分前より、いっそうきれいに微笑んだようだった。不思議だ。私こそ女性蔑視の代名詞。にも関わらず、ここ数日、こういう特別な、別種の輝きに弱い。
「おとつい、近所の庭で、木蓮かこぶしか、わからないけれど、あの葉のない樹木に産毛の蕾の開いているのを見た。庭木程度なら鮮やかで気持ちのいいものだ。大樹に育つと、気味が悪い。夜に見るとぞっとすることがある。とにかく、梅は終わりだ。桜の季節。近所の椿の首はみんな落ちていた。水仙は土のよいところでは、まだ元気だ。ミモザ。今日のお詫びに、何か贈り物、しなきゃならない。ミモザの黄色と香りは好きかい?」
「それってなあに? お花の話? 趣味なんですか?」
「いや、正直、興味ない。音楽のCDとかのほうがいい?」
「ねえ、俊さんって…」
「逗子に帰る。今日は迷惑かけた。失敗は今日だけだ。二度と許されない。これから帰って、トリートメントだ。今のおれ、おっかないか? 耐えられないほど不気味か?」
「許容範囲です。一緒にいて、恥ずかしくはありません」
「ニュー・ムーン・ドーター。新月の娘? 何か特別な言い回しなのかもな。初々しいとか、再生とか、何か英語圏の人間にだけわかる意味があるのかも知れない」

 小さいひと、そんな目で、好奇心を剥き出しに、他人を見るべきじゃない。本気で私を殺すつもりなら、話は別だけどね。そうでないなら、教養、品性、少し足りないな。もちろんきみには時間がある。私にはない。私は逗子に帰る。半日かけて”調整”をする。きみは二度と今日の私を思い出さないだろう。これが実は死骸だなどと、想像もしないだろう。私は全力でそのように”調整”する。



 少しテンションが上がりすぎた。久しぶりに、こちら側に来た。レバーは自然とON側に。楽しくて、書きすぎた。これから先、ずっとひとりで生きねばならない。切り替えの度に、私は猛烈に老いてゆく。なるだけ早く、どちらか心を決めねばならない。この繰り返しは間違いなく私を殺す。もう今日は止そう。眠らなきゃならない。小さいひとの為に、私にとって特別な名前を持った、幾人かの為に、自分自身の命と可能性の為に、この部屋で、私はひとり猖狂する、必要がある。


posted by kawai toshio at 05:51| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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