2005年03月05日

 電話。横浜精神保険福祉センター。落ち着いた、そしてくたびれた話し声の、老女らしい声。
「やっぱり専門家のね…」
 国立病院機構久里浜アルコール症センター? だけど要入院でひと月に十九万、だって? 冗談じゃない。つうか、バカにしてんのか? 仕事もしねえでベッドの上に寝ころんで、いったい毎月、誰がそのゼニ払うんだよ。だいいち、国立はダメだ。こっちにも、まあいろいろと事情があってな。

 それなら、近所のわたくしりつ、メ・ン・タ・ル・ク・リ・ニ・ッ・ク? 金さえ払えば、専門家きどりのポンコツが、一日かそこら、生き延びさせてくれますよ?(実際、私は面接というものを受けて知った。あれらは、私とは種類が違うかも知れないが、完全に狂人だ。反吐が出るほど退屈で、つまらない、無知で、品性の欠片もない、くだらない連中。ようするに、まるで話にならない)。



 ここは一応私のページだから、何を書いても、いいんだよね、という、怠惰、驕慢。現実には今や、この血の一滴、肉の一片すら、私のものではないのに。今にちまで私を養ったあらゆる人々の意思、命、名前、お金、時間。書くことの自由すら失い、いまやこの身は埃かぶって、ガラスのケースの片隅に、忘れ去られた流れの質草。せめて! 道端の収集場に無為に捨てられた、酔漢すら興味を示さぬ蛍光ランプ、無機のがらくた、であれば、まだしも最後の自由はあったろうに!



 そんなわけで、福祉センターやら、病院やら、このところ勧められるままに、さんざんさまよい歩いて、たらい回されて、それでもとにかく”専門家”さまの叡智に対価を払い、ほとんど彼らを人間でなく、職業倫理と浅薄なうぬぼれ機能付きの機械なんだと、そう受け入れて、いわゆる治療というものを開始した。屈辱だ。はっきりと心の折れる音を聞いた。それから、”お前は狂ってる”。幾度も、幾度も。狂気についての専門家だって? 本当に知っているのか? あれにはスイッチがある。恐慌の中に、飢え渇き、凍え、それでも選択肢は与えられる。そうして、そこにあれがいる、その気配、物音、本当に今、それがそこにある、と自身で信じた瞬間から、その世界へ、イン! 前段階の恐慌は、たとえば見覚えのあるタクシー会社の名前を横腹に書いた黒い車。それが私のすぐそばを通り過ぎる。身体が震え、妙な汗が手や脇から噴き出す。耳が遠くなる。ものすごく身近に、狂気を感じる。
「それって、どういう意味でしょう?」
 お前、本物のバカなのか? 考えることを止めてしまったのか? とんだポンコツ機械だ! それを貴様の頭脳に訊ねる為に、この屈辱に耐えて、私はこの場にいるんだろうよ!



 最強の高性能アンプ。私は麻酔の為にアルコールを用いたことは一度もない。酒が魔法の薬であったことも、一度もない。それは常に最強のアンプ。神経の増幅装置だ。



 さて明日は病院だから、今夜こそは何でもいいから食って、寝て、少し顔色よくしておこう。だいたい今日、飲み過ぎだ。千円札一枚持ち、真夜中過ぎに、家を出る。雪。自販機で、ホットコーヒー買いたかったが、迷信のように、子供の頃聞かされた、コーヒー飲むと、眠れなくなるよ、そういう話を思い出して、我慢した。小さな十字路を越えて、いつもの坂道を下る。イヤホン越しに、犬の吠え声が聞こえたような気がして、さては幻聴、雪の未明にいよいよ滑稽、なるほど諦めとは、こういうものかも知れない、などと冷笑気味に思っていると、声はどんどん近くなって、いつか私の目の前に、コンビニエンスストアの灯りの中に、果たして犬はいた。

 小さな柴犬らしい、その犬は、かなりの老犬で、足が萎え、ほとんど立つこと、歩くことすら困難らしく、それでもがたがた身を震わせて、立っては転び、立っては転びしながら、道路の真ん中で、恨めしそうに、短く、何度も、「ワン! ワン!」と吠えていた。イヤホン外して駆けだして、側に寄ってみたら、犬の様子はいよいよ尋常でなく、尾っぽの毛は半分以上抜けていて、びしょ濡れで、瞳は濁り、虚空を睨むようで、実は見えていないのかも知れないと思った。横たわって、恨めしそうに鳴いている。咄嗟に、狂犬病、とも考えたが、何しろ異常に震えている。そっと抱え上げたら、吠えるのを止めて、首と額に手を添えると、震えもだいぶ収まった。犬は、緑色の、革製の首輪をしていた。

 こんな状態で、遠くから歩いてきたとは思えないから、きっと近所の犬に違いない。あんなに激しく吠えていたんだから、だれか知ってる人が迎えに来るかも知れないと、私は雪の中、病んだ、臭い老犬一匹抱いて、コンビニエンスストアの前で、しばらく身を屈めていた。いったん収まった震えがまた出始めて、これはいよいよ死んでしまうかも知れない、そう思ったが、待つことの他に何も思いつかない。そしたら原付バイクに乗った若者が三人、買い物に来たらしく、私のそばでバイクを降りた。
「ねえ、きみら、このへんの子? この犬、知らない? 緑の首輪してる」
「ちょっとわかんないッスねえ。どしたんですか?」
「病気か怪我か知らないけど、ひどく弱って、そこで倒れて鳴いてた。そんなら、病院知らないか? 動物の」
「でももう三時ッスよ…」
「そっか、ごめんね、なんか」
 いつか彼らは、私の隣で、カップラーメンをすすりだした。五分かそこらして、彼らのひとりが言った。
「そこ、ちょっと行くと交番ありますよ。いつ通っても中に人いるから、たぶんこの時間でも平気だと思う」
「あ、そうだった。小坪の交番、人、いるかな。行ってみる。でもよ、あいつら、肝心なときに役立たねえからなあ」
 皆で笑った。私自身、凍えていて、それ以上じっとしていたら、動く気力を失って、犬は死んでしまうと思った。
「じゃ、行ってくる。ありがとね、なんか、ごめん、な」

 私は犬をぐっと抱き上げて、立ち上がると、雪の中、駆けだした。犬は小さくて、軽くて、臭かった。左手の掌に背骨の冷たさを感じた。まだ生きてはいる。でもどんどん冷たくなっていく。私はその犬のびしょ濡れの、冷たい額に自分の額をくっつけて何度も呟いた。
「ほら、もうすぐだ。暖かいとこにいける。絶対飼い主のとこに帰してやる。だからな、まだ、死んじゃダメだ」
 若者のうちのひとりが、私たちを追いかけてきた。
「あの、すみません! これ、懐炉の代わりにでも…」
 コーンポタージュ、缶スープを手渡された。
「ありがとう。ごめんな、なんか」
 左手に小さく冷たい背中を抱いて、右手で彼のくれた缶スープを犬の腹に押し当て、私は赤灯の回る建物まで走った。やはり何度も、腕の中の小さな命に囁きかけながら…。

 運命の歯車も、ごく小さな、大勢に影響しないものに関しては、優しくなめらかであったりする、こともある。少なくとも、老犬の命に関しては。交番の中では、ちょうど宿直らしい、五十前後の警官が、パトロール帰りなのか、レインコートを脱いで、縦長のロッカーの鉄扉を開き、それを仕舞おうとしているところだった。
「すみません、この犬、すぐそこの、ファミリーマートの前で、凍えて、吠えてた。ひどく震えてる。どんどん冷たくなる。この時間でも看てくれる、動物病院か何か、教えてください」
 ベテランらしい交番勤務の警官の声は、落ち着いていて、僅かに気怠さすら感じさせた。
「はい、犬の拾得ですね。拾っちゃったの? とりあえず中入って。それからお名前と住所、電話番号、いいですか?」
 私は犬を抱えたまま、交番の中にしゃがみ込んで、彼の質問に答えた。彼は即座にどこかへ電話をかけ、それから知り合いらしい人の名前を指定して、どうやら電話の向こうのその人に、
「ええ、犬の拾得です。いつもの柴犬じゃありません。相当歳とって、今にも死にそうな感じです。柴犬か雑種か、ちょっとわかりませんけど、首輪をしています…」
 私はぼんやりと彼らの会話を聞いていた。保健所のひとかな? それとも専門の施設みたいなものがあるんだろうか?
「すみません、じゃあですね、こちらの書類にサインを。ここです。フルネームで頂けますか?」
 書類の欄には、権利放棄、と書かれていた。
「これってどういう意味? おれはこいつと約束したんだ。飼い主のとこに帰してやるって。権利放棄? 嫌な響きじゃないか。おれはそんなの、認めないぞ。どういう意味なんだ?」
「まあ、あくまで形式の問題なんですけどね、たとえばこの子が生き延びたとして、飼い主なり、里親なり、見つかったとして、その時に、えさ代の請求とか、うーん、ちょっと待ってください」
 彼は再び電話をかけた。前と同じところらしかった。
「…ええ、権利放棄したくないと言っています。とにかく死なせないでほしいと。はい、首輪は確かにあります。名前、住所等は書いてありません。はあ…、やはりダメですか」
 電話を切ると、彼は座布団一枚、床に敷いて、
「やはりですね、権利放棄して頂かないと、迎えを呼べません。安心してください。逗子市では拾得された犬を、すぐに保健所に送って、その、何というか、殺したり、そんなことはしません。私も素人ですから、この子の状態が、どんなものなのか、断言はできませんけど、かなり歳をとっていて、死にそうに見えます。サインしてください。でないと、どうしようもありません」
 私は書類にサインした。これは同じなんじゃないか? 私の知っている世界。人々。私の苦しんできた、本当の理由。今ここで投げ出していいのか? 最後の最後まで、意地張って、わがまま通して、おまえの死ぬのを…? 死ぬのを? 思考のそのあたりで、私のアンプにスイッチが入って、ぱちんとそれこそ漫画みたいな音を立てて、感情の針が一気に目盛の最大を振り切ってしまった。
「サインした。迎えを呼んでくれ。どんな種類の専門家か知らないが、電話の施設の人に頼んで、こいつ、一分でも長く生かしてくれ。その間に、あんたはそれこそ、専門家だろう? こいつの飼い主、探してほしい。こんな雪の中、寒さの中、あんなに必死で吠えていたんだ。こんなちっこい身体で、満足に歩けもしねえのに。絶対に近所の家だ。たとえ老い先知れていたって、こいつは犬なんだ。飼い主のもとで死なせてやってほしい。その為に、あんなに懸命に吠えていたんだ…」
「はい、だからあなたは、その子をここに置いて、ええ…」
 付き添うことも許されないのか? 看取ることも? いや、不吉過ぎる。おまえの吠えていたのは、私の、こんなうす汚い酔っぱらいの変態野郎の腕の中で死ぬ為じゃあない。絶対に飼い主のところに帰してやる。
「一応ですね、備考欄というのがあります。里親や飼い主が見つかったら連絡してほしいとか、権利放棄した後にも、それなりの対処を希望する場合…」
「いらないよ。そんなもの」
 私は老犬を座布団に乗せ、首と額、抱いていてやると、震えもだいぶ収まるから、と警官に告げて、その交番を出た。冷めた缶スープひとつ右手に握りしめて。

 警官だって人間だ。守るべき生活があり、愛すべき思い出のある、正真正銘の人間だ。こんな時間に、酒臭い、三十間近の大男、臭い犬抱えて、迷惑、厄介かけて、ごめんなさいねって、そんなこと考えながら、雪の中、まだ暗い道を歩いていたら、突然涙が止まらなくなって、いつか再びファミリーマート。子供達の姿はすでにない。ポケットの中の千円はジンに変わった。特別製の最高性能アンプ。ものの十分もしないうちに、書くことを考えている。小さな命の行く末。いいさ、”おまえもおれの一部だ”。病んだ老犬一匹救えずに、何の為の命だよ。だから、物語をくれてやる。



 ところが翌朝、いや、昼か。電話が鳴って、今さら私の電話を鳴らす、酔狂な人間なんて、ひとりだっていたかしら? なんて疑問を抱きつつも、電話に出てみると、老いた女の声。
「あの、××さんでしょうか? わたくしOと申しますが、昨晩は、あの、柴犬のことで、はい」
 こういうとき、私は信じられないくらいのダンディ・ボイス。落ち着き払って、穏やかで、紳士的。
「ああ、飼い主の方ですか? よかった、本当に」
「ええ、あの、本当に、もうひとりで歩くこともできないくらい、危なっかしいお爺さんなんですけど、ちょっとしたはずみですか、何故だか昨晩、あんなことになってしまって。本当にありがとうございます。あの雪でしたでしょう? わたくしもあまり身体がよくないもので、車も出せませんし、どうして探したらいいか、困り果てていたところに、ついさっき警察の方からお電話を頂いて」
「いいえ、わざわざお電話まで頂いて、申し訳ありません。あの子、まだ無事ですか?」
「はい! そりゃあもう、危なっかしいですけど、生きております。本当にありがとうございます」
「いえ、だいぶ凍えていたようですから、暖かくして、長生きさせてやってください…」
 電話を切った。即座に着信履歴を消す。
 ほら、みろ! おれだって、病んだ老犬一匹くらい、救ってやれる。だから、勇気を出せ! 気合いを入れろ! ひとり部屋の中で喚き散らしながら、やっぱり涙が止まらなくて。



 歯車は、今日もごとりとあの冷徹な音を立てて私のもとにも回転し、今夜もひとり私を狂気に誘います。
 羽織った一枚きりの上着に、あの犬の臭気を感じさせながら。
 さあ、今夜も冒険に出かけよう。出し惜しみはよくない。悲しいことが多すぎる。

posted by kawai toshio at 02:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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