2005年01月23日

あの小さな十字路まで

 猛烈な吐き気と寒気。やけにげっぷが出る。しかも腐敗したヘドロのような臭い。空き地の隅で吐いた。信じられないくらい、大量の、何だろう、やはり腐った粥のようなものが出た。二度、三度。げっぷと同じ臭いだった。おかしいな、ここ何日も、レタスとコンソメしか口にしていない。今、俺の腹の中から出てきたものは何だ? どう見てもバケツ一杯ある。こんなもの、どこに仕舞われていたんだ? それにこの臭い。いつ食ったものだ? 気味が悪かった。胸と腹がいやに冷たかった。風邪でもひいたのかと思ったが、全身が冷たすぎて、熱があるのかどうか分からない。少し歩いて、ランチタイムの知人の店に入った。
「便所、借りる」
 とだけ言って、席にも着かず、二階の便所に入った。正面の鏡を見る。ほんの三十分前、家を出たときと、まるで人相が変わっている。白くかさかさに干からびた肌、目の下がどす黒く内出血したみたいになってる。ズボンを下ろして便座に座ると、下痢とさえ呼べない、無論便ですらない、やはり大量の水が出た。臭いは感じなかった。三度出た。汚い話だが、洋式便所から、溢れそうなほどの量だった。おかしい。こんなにたくさんの水分を摂った覚えはない。どこから、何が出ている? 寒気と吐き気、不快感、悪性のなんとか、そういうものが、耐えられないほどになっていた。カウンターに座ってコーヒーを頼む。
「あ、そういえば俊くん、Hちゃん今夜マフラー持ってくるって」
 マフラー? 何の話だろう。一分くらい考えて、俺がいつも、あんまり貧乏くさい格好ばかりしているから、店員の女の子が、お古のマフラーをくれるって話を思い出した。
「ああ、夜、来れたら来るよ」
「なんか、具合悪そうだね」
「下痢。あと、身体の中からヘドロみてえな臭いがする」
 コーヒーには、口をつけられなかった。なんとなくヤバそうな感じがして。店を出て、それからパチンコ屋とマクドナルド、駅で便所を借りた。いったいどうなっているのか。どう見ても、ここ数日のうちに摂取した以上の、いや何倍もの得体の知れないものが、上からも下からも排泄され続けている。悪寒がひどくて、家に引き返す気にもならない。ねじ伏せられるレベルではなかった。俺はいつも無茶をやらかしているように見えて、それほど馬鹿じゃない。これは異常だ。酒の飲みすぎで血反吐を吐いたり、胃がつぶれて激痛を味わったりするのとは全然違う。弱気になって妙な妄想に頭がやられてるとか、そういうことでもない。身体がまるで反応できない。僅かな時間で、俺は突然自分の肉体を失いつつある。さらさらの鮮血。鼻血だった。すすって隠すなんて不可能な量だった。恐ろしく滑らかで、色鮮やか。本物の鮮血だ。菜っ葉色の上着の袖が、見る間に黒く染まる。車を拾った。運転手に横浜の病院の名を告げた。兄貴が勤めてる。俺にしては、いい思い付きだ。

 待合ロビーには、大勢の病人がいて、巨大な電光掲示板に表示される数字を睨んでいた。間抜けなことに、俺はどこに行って、何をしたらいいのか、見当もつかなかった。病院は大きすぎた。国立の総合病院。保険証も診察券も持っていない。ついでに金も。テレビの真下にある長イスに横たわった。考えろ。映画のチケット売り場みたいな窓口がいくつもあった。あそこか? わからない。その窓口が並んでいる大きな部屋の脇に扉があって「事務局」と書かれたプレートが掛かっていた。あまりにも不快な悪寒と吐き気と腹痛の為に、動くのが億劫だった。けれど行かなけりゃならない。扉を開ける。きっと職員用のものなのだろう。扉に一番近い机にいた女がちらりと振り返った。いろいろ考えたり、計算したり、他人をコントロールしたりする力は、もう全然残っていなかった。その女に兄貴の名前(ようするに俺の名前でもある)を告げた。弟だ、とも言った。ロビーのテレビの下にいるから、手が空いたら来てくれるよう伝えて、またテレビの下に戻った。案外早く兄貴はやってきた。と思う。はっきり憶えていない。ほとんど意識を失っていたから。
「おい、お前、どうした?」
 兄貴は笑みすら浮かべていたように思う。
「混んでるな。手が空いたらでいい。手の空いた先生いたら、看てくれるよう頼んでくれ」
「どうしたんだよ?」
「具合が悪い」
「そりゃ、見りゃわかる」
「酒じゃねえ」
「ああ」
「食ってもいないもんを吐き、飲んでもいないもんが出る。鼻血が止まらねえ。それからハンパじゃなく腹がいてえ。吐き気と寒気がどんどんひどくなる。あとな、保険証と金がねえ」
「わかった。頼んでみる。七時くらいかな」
「悪い。あと、できれば点滴くれ。ここでいい。誰か看護婦よこしてくれ」
「ああ…」

 気がつくと看護婦が俺の顔を拭いていた。
「弟さんなんですって?」
「ああ、どうもすみません。忙しいとこ」
「すぐね、先生も来ますよ。それじゃ、上着脱いで」
 点滴は、冷たくて清潔な白いシーツに似ている。とてもいい気分だった。すぐにまた気を失った。

 車イス。手の空いていたのは宿直の脳外科医で、ベッドは呼吸器にひとつ空いているだけだった。軽い問診を受けて、点滴と薬を一晩入れ続けた。身体を巡るそれらの液体は、ひんやりしているのに、なぜか寒くはない。翌日、検査のためと、どうせしばらくは薬を飲むことは出来ないだろうから、一週間ほどの入院を勧められた。十二指腸潰瘍。食道炎、急性胃炎。諸々の神経障害。動けないってほどじゃない。身体はだいぶ落ち着いていた。一週間のベッド代など払えるわけもない。おまけに明日は仕事だ。
「いや、すぐに退院しますよ。薬もいらない。今日一日、点滴だけもらって、出て行きます」
「そうは言ってもねえ。まだロクに検査もしてないし、体力も相当落ちてるみたいだから、少し休んでいってもらわないと」
 昨日とはまた違う医者だった。けれど医者ってのは、みんな同じだ。有能で親切な医者も、そうでない医者も。俺みたいなポンコツが一週間も仕事を休めばどうなるか、まるで想像すらできないんだろう。午後に兄貴が訪ねてきた。
「よう、どうだ?」
「かなりいいぜ。マジで助かった。感謝してる」
「おう、で、お袋には伝えておいたほうがいいか?」
「いらねえよ。今日退院する。手続きと清算頼む」
「保険証ねえんだろ? どこに請求すりゃいいんだ」
 兄貴は笑っていた。
「まあ、いいさ。そんなヤツいくらでもいる。金のことは気にすんな。で、大丈夫なんだな?」
「ああ。そういや兄貴、結婚式以来だな。あんたこそ、元気かよ」

 夜には逗子に帰っていた。吐き気はもう感じなかった。胃の痛みと、ちょっとした寒気、下痢はまだ続いていた。が、それほどひどい状態ではなかった。あと一日眠れば、きっと何とかなる。しかし一気に家まで歩くことが出来なかった。なるほどたったの一日で、ずいぶん衰弱している。休憩が必要だ。バー。
「あ、俊くん! マフラー持ってきたよー」
「あ、そう。昨日ごめんね。ちょっと具合悪かった」
「うん。でも相変わらず寒そうな格好」
「今夜は暖かいぜ。いい夜だ。なあ、Mくん?」
「そうっスね。最近ヤバいくらい寒かったから。今日はだいぶマシですよ」
「えー、超寒いじゃん! マフラー、車に置いてあるから、ちょっと取ってくるね」
「コーヒーでいいっすか?」
「しょうが湯」
「そんなもん置いてないっすよ」
「じゃ、コンソメだ」
「マジっすか? やべー、面倒くせー」
 バタバタと入り口のドアを乱暴に開く音がして、彼女が戻ってきた。
「ヤバい! 超寒い! ハイ、俊くん、これ。無地の黒だから、男の人がしても変じゃないと思うけど…」
「うん、ありがとう」
 しかしマフラーは確かに黒だが、隅に小さな、いかにも女性ブランドらしい、かわいいピンク色のタグが付いていた。

 コンソメを飲みながら、しばらく三人で横須賀の波について話をした。店員も客も、この店の連中は大概地元のサーファーだ。そして店の二階では、男が二人ハシシを食らいながらダーツに興じていた。
「それじゃ、行こうかね。また身体が冷えちまう前に」
「どうもありがとうございます」
「うん、ごちそうさん」
「そうだ、俊くん、酒止めて、いいことあったじゃないっすか」
「いいこと? なにさ?」
「Hちゃんにマフラーもらった」
「それって、いいことか?」
「えー、ひどーい。いいことじゃん」
 少し考えてみた。ピンク色のタグ…。
「べつに、いいことなんかじゃねえだろ」
 皆、笑った。

 店を出る。やはり暖かい夜だ。
「じゃあ、俊くん、次はシャツだね。それ、すごい寒そうだもん」
「そうか? 慣れたから、何とも思わねえな」
「風邪ひくよホント」
「じゃ、ごちそうさま。マフラー、ありがとね」
「うん。気をつけてね」
 暖かい夜。精一杯の愛想笑い。看板娘の気負い。冷笑。ひとり呟きながら、といって何か考えるわけでもなく、ただ歩く。いい夜だ。海風がざらついた舌で俺の皮膚を舐め、灰を削ぎ落とし、吹き飛ばし、それがさらさらと背後に尾を引いて、舞い上がる。いい夜だ。ミスター・ハードボイルド。いつもの俺。何も問題ない。
posted by kawai toshio at 13:40| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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